宝篋印塔 ほうきょいんとう

宝篋印塔
ほうきょいんとう

もとは減罪を説く宝篋印陀羅尼をおさめた塔。インド阿育(アショーカ)王の舎利塔造営の故事をもとに作られた中国・呉越国王の銭弘俶八万四千塔にならい、日本でも平安時代後期の院政期に密教系の造塔作善として、木造の籾塔や泥塔などの小塔が多数作られた。鎌倉時代中期からは石造の宝篋印塔が作られ、供養塔や墓塔として用いられたが、これは宋代の石造宝篋印塔の影響と考えられる。方形の石を下から基壇・基礎・塔身(四面に四方仏か種子を彫る)・笠と積み上げ相輪を立てたものである。笠の形は上が次第に小さくなっていく階段状で、四隅に方立という耳形突起を持ち、相輪を立てるのが特徴と言える。西日本と東日本などで形式に相違が見られる。韓国・忠清南道天原大坪里廃寺跡などから、高麗時代の石造宝篋印塔が発見されており、宝篋印塔は東アジアの仏教交流史を物語る興味深い資料である。

(林文理)

以上、転載