缸波頭里城跡 かんはとうりじょうあと

缸波頭里城跡
かんはとうりじょうあと
Hangbaduriseong-ji

韓国・済州道北済州郡涯月邑古城里に位置する、三別抄の乱の最後の拠点とした缸波頭里城の遺跡。史跡整備に関連して、1973年に土城の南側の一部で発掘調査が行われた。その際、下層で石築遺構や瓦が出土した。土城の規模は、周囲6㎞に及ぶ広大なものであるが、そのうち南側の2㎞ほどがよく遺存する。済州島の城郭の中で最大規模を誇る。外城はこの付近の丘陵部を基点として、南方窪地から平地一帯にかけて、平面楕円形に築かれている。一方、内城は三別抄の将軍であった金通精の居城であって、丘陵南側に位置する。その規模は、周囲700mほどの平面正方形の小型の石城と推測されている。その付近からは、無数の瓦や高麗青磁の破片が散布し、また加工石材も認められたが、現在では内城の土塁も消滅している。土城の外郭には瓦窯跡があったといわれ、そこが缸波頭里城で使用する、屋根瓦の供給窯であったことがうかがえる。

(西谷正)

以上、転載

 

博多湾沿岸では、海岸線に残る石築地(=防塁)を日常の中で目にしています。

同じ時期の朝鮮半島では、当時の高麗王朝の従属を良しとせず、「三別抄」という組織が蒙古に徹底抗戦したことを、私たちはもっと知っていいと思います。

南下を続けながら4年もの抗戦を経て、ついに済州島で鎮圧。その翌年に、文永の役として、博多が蒙古の襲来を受けることになりました。

済州島に残る遺跡の規模や、展示館に並ぶ激しい戦の絵画を目の当たりにすると、言葉を失う衝撃があります。

アジアのみならずユーラシア全体が翻弄された運命の、東の端にぶら下がっていた日本は、この絵と繋がっていたのだと。