昌寧〔遺跡〕 しょうねい

昌寧
しょうねい
Changnyeong

韓国・慶尚南道昌寧郡。朝鮮半島東南部の洛東江上流域の東側に位置する、先史時代以来の遺跡の密集地。この地域が文献史料に登場するのは、原三国(三韓)時代に入ってからのことである。『魏志』の韓伝に見える不斯国がそれに当たる。しかし現在のところ、この時代の遺構や遺物はほとんどわかっていない。三国時代に入ると、加耶諸国の中の一国として、比斯伐・比自火(『三国史記』)とか、比子伐(新羅・真興王拓境碑)などと呼ばれたようである。『三国史記』によると、新羅の真興王16年(555)に、完山州もしくは下州が設置されたと見えるので、そのころ新羅の支配下に入ったと思われる。そうなると、真興王の拓境碑に記される辛巳年は真興王22年(561)に当たる。さらに『三国史記』には、真興王26年に州を廃したと見えるので、そのとき同じく『三国史記』に見える比自火郡になったのであろうか。その後、統一新羅時代の8世紀中ごろの景徳王代に火王郡に改名され、そして高麗時代初期に、現在のように昌寧郡へと変遷した。なお『日本書紀』神功摂政49年の条には、比自㶱と見える。加耶時代の遺跡としては古墳と山城がある。

古墳は校洞・桂城里古墳群がよく知られ、5世紀後半から6世紀初めにかけて最盛期を迎える。内部主体は竪穴式石室を主とするが、新羅式の積石木槨墓や横穴式石室墳もわずかに見られる。校洞11号墳出土の有銘鉄刀や、桂城里古墳群出土の刻字土器は、真興王拓境碑とともに、初期の文字資料として重要である。校洞古墳群の東側丘陵地には、石築の火旺山城と牧馬山城が知られる。一方、校洞古墳群の西南方平地には、三重石塔2基・幢竿支柱と塔金堂治成文碑があり、統一新羅時代に仏教寺院が造営されたことがうかがえる。

(西谷正)

以上、転載

 

 

*マップは慶尚南道昌寧郡の範囲