チャンパ ちゃんぱ
チャンパ
ちゃんぱ
Champa
現在のベトナム中部に存在した王国であるチャンパは、東南アジアの「インド化された国家」の一つとして知られた。中国史書にはAD192年ごろ、後漢の日南郡象林県で区連という人物に率いられた反乱の結果、林邑が独立したという記録が残る。林邑は8世紀中葉から環王国、9世紀中半から占城と呼ばれるようになり、これらがチャンパと同一視される。チャンパという名称は7世紀以降の碑文の中に登場する。ミーソン遺跡に代表されるような寺院建築や、ヒンドゥーの神々を題材とした砂岩彫刻は、19世紀から研究者の興味・関心を引きつけたが、考古学的調査は進んでいるとはいえない。
クァンナム省で林邑期の王都とされるチャーキュウ遺跡、クァンガイ省ではコールイ遺跡・チャウサー遺跡、ビンディン省では11世紀以降に占城の都があったヴィジャヤ地域のアンタイン遺跡・ティナイ遺跡・チャーバン遺跡など、いずれも城塁を伴う遺跡で発掘調査や踏査が実施されてきた。ビンディン省のゴーサイン古窯跡群の調査では、14~15世紀に輸出用に生産されたチャンパ陶磁の実態が明らかにされている。チャンパは南シナ海貿易によって繁栄したが、北の中国、ベトナム(大越)とは常に緊張関係にあり、1471年には大越の黎朝によってヴィジャヤが占領された。その後は南のバーンドゥランガ(現在のファンラン付近)を本拠とし、チャンパ王権は1830年代まで続いた。チャンパの主要民族であったオーストロネシア語族のチャム人は、現在もベトナム南部とカンボジアに居住している。チャンパの実態は川筋や平野ごとに割拠した地域王権の連合体であり、時代によってその中心が移動したとみられている。
(山形眞理子)
以上、転載
