咸安〔遺跡〕 かんあん
咸安〔遺跡〕
かんあん
Haman
韓国・慶尚南道咸安郡。朝鮮半島東南部の南岸地域に当たる。先史時代以来の遺跡の密集地。この地域が文献史料に登場するのは、原三国(弁韓)時代に入ってからのことである。『魏志』の韓伝に見える弁辰阿邪国がそれに当たる。しかし現在のところ、この時代の遺構や遺物はほとんどわかっていない。三国時代に入ると、加耶諸国の中の阿羅国の所在地となる。『三国遺事』に収録されている『駕洛国記』によると、5伽耶の一つとして阿羅の名が見える。『広開土王陵碑』に安羅人の戍兵と見え、一方『日本書紀』の継体天皇23年(529)紀、欽明天皇2年(541)紀と同15年(554)紀に見える安羅は、ともに阿羅人・阿羅国を指す。そのころの遺跡群は、咸安盆地に集中して分布する。城山山城は周囲約1.4㎞の石築の城壁を備えた、阿羅国の拠点であったが、滅亡後は新羅によって利用された。1990年代前半の発掘調査で、6世紀中ごろから後半にかけてのころ、山城に搬入れた塩やヒエなどの物品の荷札木簡27点が検出された。城山山城の北側には、45基からなる末伊山古墳群が分布するほか、盆地の縁辺部数ヵ所に数十基の古墳群が認められる。それらは主として、5世紀代の竪穴式石室墳である。4世紀代の木棺墓群や6世紀代の横穴式石室墳も若干知られる。そのうち、竪穴式石室墳の副葬品の中には、直弧文や筒形銅器があり、一方、近畿地方からは火焔型透孔高坏が出土するなど、阿羅国と倭の相互交流を物語る遺物がある。
『三国史記』によると、統一新羅時代8世紀中ごろの景徳王代に咸安郡と改名され、高麗時代へと引き継がれた。その後、李朝(朝鮮)時代に咸州と呼ばれるようになったが、20世紀初めに再び咸安郡となり、現在に至っている。統一新羅時代以後の遺跡は、ほとんど発掘調査されていない。
(西谷正)
以上、転載
*辞典解説文から漢字ピックアップ
戍
ジュ、たむろ、まも(る)
*マップは慶尚南道咸安郡の範囲
