扶余〔遺跡〕 ふよ

扶余〔遺跡〕
ふよ
Buyeo

三国時代百済後期の故都。朝鮮の三国時代の百済は、538年(聖王16)に、熊津すなわち現在の忠清南道公州から、その南西方およそ36㎞の泗沘、すなわち現在の忠清南道扶余に遷都し、660年(義慈王20)の滅亡まで、6代120年余りの間にわたって百済後期の王都とした。扶余地方の歴史は、先史時代にさかのぼるが、地域としての大きな発展は、無文土器(青銅器)時代に入ってからのことである。扶余郡草村面松菊里には、この時代の大規模な集落遺跡があり、その一隅にある石棺墓からは、遼寧式銅剣と磨製石剣・石鏃・管玉などが出土した。同じく蓮華里では、竪穴式石室から細形銅剣や多鈕粗文鏡などが出土しており、ともに地域的集団の首長層と係わるものと思われる。

扶余の歴史的記念物として、扶余邑内に遺存する百済後期の遺跡群に、目を見張るべきものが多い。まず、大きく湾曲して流れる錦江(白馬江)の東岸に面した独立丘陵に扶蘇山城があり、土塁や軍倉跡などが認められる。扶蘇山城の南麓は王宮跡と推定され、またそこから南方1㎞ほどのところに宮南池と言う庭園跡がある。百済後期には仏教が隆盛し、扶蘇山の南西麓から南方に開ける台地の随所に寺院跡がある。伽藍配置は、定林寺跡や軍守里廃寺跡のように、日本でいう四天王寺式、すなわち単塔(一塔)系式が特徴的であるが、東南寺廃寺跡のように、複塔系式の可能性があるものもある。これらの遺跡群は、羅城によって囲まれた範囲内に位置する。そして、羅城の東門の外、扶余邑の中心部から東方3㎞余りの所に、陵山里古墳群があって、そのころの百済王族の陵墓地と考えられる。古墳群の西側隣接地には、王陵付属の寺院ともいうべき陵寺跡も知られる。王宮・官衙・寺院などの建造物の屋根瓦を生産した窯跡が、亭岩里で発掘調査されている。

(西谷正)

以上、転載

 

*マップは忠清南道扶余郡の範囲