公州〔遺跡〕 こうしゅう

公州〔遺跡〕
こうしゅう
Gongju

三国時代百済中期の故都。韓国・忠清南道の公州市は百済の文周王元年(475)に、漢山城つまり現在のソウル特別市江東区付近から遷都した熊津(熊川)に当たる。それ以後、三斤王・東城王・武寧王を経て、聖王16年(538)に泗沘、すなわち現在の忠清南道扶余邑に遷都するまでの5代63年間にわたって、百済中期の国都であった。公州市の市街地の北側には、東方から西方へ迂回して流れる錦江(白馬江)があり、あたかも自然の要害をなす。公州市街の北東には、錦江に面する独立した小丘陵に公山城跡がある。公山城やその周辺の山々に囲まれた平地部は、熊津城の中心部であったと思われる。そこには大通寺跡が知られる。それに対して、西穴寺跡は丘陵部に石窟寺院を造っていた点は対照的であるが、ともに中門・塔・金堂および講堂が一直線上に並ぶ一塔一金堂式(四天王寺式)の伽藍配置を示す。これらの仏教寺院跡とともに、古墳も数多く認められる。公州市街を取り巻く丘陵地帯の傾斜面から山麓にかけて横穴式の墓室を築くが、その数は1000基を越すともいわれる。中でも公州市街の北西に立地する宋山里古墳群は、武寧王をはじめとする熊津時代の王ないし王族の陵墓域と思われる。文献史料によると、熊津に国都があった時期の百済は、とくに宋・斉・梁など中国南朝の国々と、政治的・文化的に密接な交流を持ったが、そのことは塼築墳の構造形式や武寧王陵の出土遺物によっても裏づけられる。

(西谷正)

以上、転載

 

 

*マップは忠清南道公州市の範囲