加耶 かや
加耶
かや
Gaya
朝鮮半島の東南海岸地域に当たる、洛東江の中・下流域にあった古代国家。『三国遺事』に収録されている『駕洛国記』によると、後漢建武18年(42)に成立したと見える。そして同じく『駕洛国記』では北周の保定2年(562)に、また『三国史記』では真興王23年(562)に、それぞれ新羅に降伏したと伝える。一方『日本書紀』欽明天皇紀23年(562)には、新羅が任那官家を滅ぼしたと記載する。カヤ(加耶・伽耶)、カラ(加羅・伽羅・迦羅)、カラク(駕洛)、六伽耶などと、時代もしくは文献史料の違いによって、いろいろに呼ばれる。ちなみに『日本書紀』では任那と記す。そのように種々の呼称が指し示す地域も、時代によって広狭がある。洛東江流域にあった数十あるいは数百の集落の中から、しだいに部族国家を形成していった。『魏志』東夷伝韓の条に、弁韓12国のことを記すのが、それに当たると推測される。そして、3世紀後半から4世紀前半にかけてのころ、いわゆる六加耶が加耶諸国連合体を構成したと考えられる。六加耶とは、金官加耶(金海)、安羅加耶(咸安)、古寧加耶(晋州あるいは咸昌)、大加耶(高霊)、星山加耶(星州)、小加耶(固城)をいう。これらの加耶諸国の故地には、各加耶国の王族・豪族層が築造した山城跡・古墳群などの遺跡が見られる。また、王宮跡と推定される所も、高霊や咸安では指摘されている。中でも金官加耶と大加耶の勢力は強大で、金官加耶から大加耶へと変遷するものの、それぞれ時期を異にして盟主的地位を占め、政治・経済・文化の中心となって、他の加耶諸国を統率したともいわれる。
加耶諸国はやがて、『日本書紀』継体天皇紀6年(512)に、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県が、百済へ割譲されたという記載からうかがえるように、強大な隣国からの圧迫を受けるようになったようである。『三国史記』によると、金官加耶は新羅の法興王19年(532)に、新羅に降伏した後、洛東江中流域の西側の丘陵地帯で命脈を保ったが、真興王23年(562)には、ついに大加耶が新羅に吸収されて、加耶諸国は完全に滅亡した。
加耶諸国の古墳は、3世紀後半に木槨墓が出現し、4世紀後半に盛行するが、4世紀後半に登場する竪穴式石室墳は、5世紀前半に盛行する。その場合、主槨の竪穴式石室と副槨の木槨が組み合わせになることが多い。加耶の故地における横穴式石室墳は、主として新羅による併合以後の墓制と考えられる。加耶諸国の古墳出土品の中で、土器・馬具・甲冑などは、5世紀を中心とした時期の倭の製品と共通するものが多く、また鉄鋌の輸入と合わせ考えると、倭の手工業製品の技術革新に加耶諸国は大きな影響を与えたと考えられる。
(西谷正)
以上、転載
*辞典解説文から漢字ピックアップ
哆
シ、シャ
唎
リ
鋌
テイ
