高麗茶碗 こうらいぢゃわん
高麗茶碗
こうらいぢゃわん
16世紀以降に、わが国の茶道に取り上げられた朝鮮半島の茶碗の総称。そのほとんどは高麗時代の製品ではなく、李朝(朝鮮)時代に焼かれた。高麗茶碗は、15世紀後半から16世紀前半に盛んになってきた侘び茶の広まりに従って好まれるようになった。本来は朝鮮半島の各地で日常用の器として作られたものであるが、茶人の目に適って選び上げられたのである。作為のない素朴な姿が人々の心を捉えたのであろう。茶室では次第にそれまでの唐物天目や青磁の茶碗に代わって用いられるようになり、天正年間の頃になると高麗茶碗こそが最も重要なものとなっていた。こうした中で実行された文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)は、後に一部で茶碗戦争の名で呼ばれることがあるように、高麗茶碗に対する世の渇望を示している。こうして茶道に取り入れられた高麗茶碗は、桃山時代から江戸時代にかけて指導的な役割を果たした大茶人や、武将・大小名・豪商などとの関わりを伝承として身につけて、今日に至るまで高い評価を欲しいままにしている。
高麗茶碗の作行きは多様で、茶道において行われている分類も複雑である。それは大きくは天正年間・寛永年間・元禄年間、さらに江戸末期と時代をかけて整理され、今日行われているような形になった。しかし一般にはなじみが薄くわかりにくいところがあることも事実で、赤沼多佳はこれを一般の陶磁史の中に戻して次のように分けている。
①16世紀以前に将来され、茶の湯の茶碗として取り上げられたものー雲鶴・狂言袴・三島・刷毛目・粉引・雨漏・堅手・雨漏堅手・井戸・井戸脇・熊川・蕎麦・斗と屋・柿の蔕・呉器。
②16世紀末から17世紀初め頃に日本に将来されたものー割高台・玉子手・御所丸・金海・伊羅保・彫三島・半使。このうち御所丸・金海・彫三島などは、次の御本に先立つ早い時代の注文である可能性がある。
③17世紀から18世紀にかけて日本からの注文により釜山で焼かれたものー御本。
高麗茶碗はもともと朝鮮の日用の雑器であったところから、これまで朝鮮陶磁史の研究の対象からはずれていて、茶会記や茶碗の伝来による研究が主流をなしていた。しかし近年、消費遺跡の考古学や、窯跡調査の進展によって新しい研究の糸口が解かれつつある。
(森本朝子)
以上、転載
*辞典解説文から漢字ピックアップ
蔕
タイ、テイ、うてな、とげ、ねもと、へた
