朝鮮式山城 ちょうせんしきさんじょう
朝鮮式山城
ちょうせんしきさんじょう
広義には朝鮮半島系の山城のことであるが、狭義には663年(天智2)の白村江の敗戦後、対外防備を強化するため、西日本各地に築造されたと『日本書紀』『続日本紀』など、文献史料に記載のある山城のことを指す。『日本書紀』には665年(天智4)の大野城・基肄城・長門国の城、667年(天智6)の高安城・屋嶋城・金田城の築城が記されている。大野城などの築城には百済からの亡命貴族である達率憶礼福留や四比福夫らが派遣、指導に当たっている。遺跡の判明している大野城・基肄城・金田城の選地プラン、版築土塁や石塁などの外郭構造、城門や城内施設などは朝鮮半島の山城と非常に似ており、大野城ー水城ー基肄城の大宰府羅城が百済扶余都城をマスタープランにしていると考えられるなど、百済からの技術指導を裏付けている。『続日本紀』に修築・停廃記事のある鞠智城(698年)、三野城・稲積城(699年)、茨城・常城(719年)なども天智期の築城と推定されている。
(向井一雄)
以上、転載
