漢魏洛陽城 かんぎらくようじょう
漢魏洛陽城
かんぎらくようじょう
Hanwei Luoyang-cheng
中国・河南省洛陽市の東15㎞に位置する漢・魏・西晋・北魏の都城。宮城・内城および城郭からなる。1954年閻文儒らの調査があり、62年以来、中国社会科学研究院考古研究所が調査を実施し、その規模が明らかにされた。内城は後漢時代に築かれ、古来、
南北9里、東西6里といわれたが、実測では平面が南北に長い不規則な長方形である。城垣は版築によるが、南垣が洛河の移動によって破壊され、他の3面が比較的によく残っている。東垣残長3895m、西垣残長4290m、北垣全長3700mである。城門が全部で13基、南垣の4基を除き、東垣に3基、北垣に2基、西垣に5基ある。これらの門を結ぶ城内の道路が南北・東西各4本確認され、宮城南門から南垣の宣陽門に至る道路は、文献に記されている銅駝街に当たり、北魏時代では銅駝街の両側に中央官衙や宗廟・社稷が配され、宮城から南へ約1500m、街東200m弱の地点で太廟または宗正寺の遺構が検出された。内城の北西隅に南北に並ぶ3基の小城があり、南城が曹魏に営造された金雍城で、中城と北城が北魏洛陽遷都以降の遺構と見られる。東北隅に漢晋の太倉・武庫の遺構が検出され、銅駝街の西方で北魏永寧寺の遺跡が調査された。南郊に後漢の辟雍・明堂・霊台・太学の遺跡が残っている。
宮城が内城の中にある。前漢時代にはすでに南宮という宮城が造営され、後漢時代の明帝永平8年(65年)に北宮が完成し、両宮をつなぐ複道も設けられた。北魏が南北宮制度を廃し、内城北部のやや西寄りの所で、南北1368m、東西660mの宮城を建設した。その東・西・南門が確認されており、南門の門道は幅約46mと規模が大きく、東側に大型建築が付随している。城内に宮殿遺構が多数存在し、太極殿は宮城南門に面する位置にある。その版築基壇は東西100m、南北60mの壮大なものである。北魏景明2年(501)に「東西20里、南北15里」、320条坊の外郭城を築いた。北垣は邙山の上に築かれており残長約1000m、東垣は内城から3300mの位置にあり、残長約1400m、西垣は分金溝の東側にあり残長約4000mである。外郭城内に東西方向の道路が3本検出された。西郭内の大市西「退酤里」「治觴里」の範囲から方形竪穴住居跡や井戸が検出され、北方系の青磁・黒磁の椀・高坏などが80点も出土した。北魏洛陽城が隋唐以降の碁盤目プランの条坊制都城に大きな影響を与えたと見られる。
(蘇哲)
以上、転載
