漢長安城 かんちょうあんじょう

漢長安城
かんちょうあんじょう
Han Changan cheng

中国・陝西省西安市から北西へ3㎞離れた平原地帯に位置する前漢時代の都城。BC202年に漢の高祖から始まった漢長安城の造営は、長楽宮と未央宮をはじめ武庫・太倉・北宮を建築し、惠帝が道路、西市を整備しそれらを一周する城壁を完成させた。続いて武帝期に桂宮・建章宮や上林苑などの増築を加えたのち、王莽九廟の設立をもって最終的な完成をみた。1956年以来、中国社会科学院考古研究所漢長安城考古隊が継続的に調査を行い、漢長安城の範囲や宮殿配置などが徐々に明らかにされている。

漢長安城の平面形はほぼ四方形で、北・西・南の城壁は、ところどころ屈曲した形で築かれていた。学術的調査によって、政治的な中枢とされる長楽宮・未央宮の規模や配置、建章宮、桂宮および昆明池・上林苑、東・西市の立地や建築形式などが相次いで確認された。城壁は高さ約12m、幅は底部で12〜16m、城壁の外側には濠がめぐり、幅約8m、深さ3mを測る。計12の城門が城壁の四面に3ヵ所ずつ設置され、一つの城門につき3本の門道がある。城内には計8本の街路が直行するように整備されている。また、漢代の礼制建築である明堂辟雍・王莽九廟、桂宮遺跡、武器庫や窯跡、冶金・鋳銭などの生産工房遺跡の発掘が相次いだ。近年、計画的な発掘調査を展開している長楽宮の中心宮殿区遺跡では、多彩な壁画を描いた宮殿建築跡や皇室の氷室が発見された。これらの遺跡から陶器・銅器・鉄器・玉石器や刻銘を持つ骨簽および「新室昌‥‥」「封壇泰山」を刻んだ王莽期の玉牒片が出土し、漢代の宮城とその制度を究明する上で非常に重要な資料を提供している。

漢長安城の総面積は約36㎢に達し、その3分の2の区域までを宮殿建築群が占めるが、民衆が生活した領域を含む帝都プランは不明な点が多い。最近、人工衛星を用いた高精度測量(GPS測量)の調査実施によって、前漢長安城と高祖長陵を中心に南端の南山子午谷口から北端の嵯峨郷天井岸村にある五方基壇まで全長75㎞に及ぶ建築中軸線の存在が検証された。この遠大な南北中軸線は渭河(=天河)を中心点として都城と陵墓という帝王の生死空間が南北対称的に配置され、軸上にある自然地形と人工的建造物を含む各地点の方位も、真北から東西への振れが認められるが、いずれも30分以内の範囲におさまっている。これは天地の対象的な配置をベースに漢帝国の支配の正統性と神聖性を表象したものと考えられる。こうした都城思想と方位決定の技術は、約900年後の古代日本にも受け継がれた。

(黄暁芬)

以上、転載