楽浪郡〔遺跡〕 らくろうぐん

楽浪郡[遺跡]
らくろうぐん
Naknanggun  Lulangcheng

中国・漢の武帝が元封3年(BC108)に、衛氏朝鮮国を滅ぼして設置した楽浪郡は、25の県からなっていた。その所在地は、ほぼ現在の北朝鮮の平安南道から黄海北道を中心とする地域に当たる。郡の役所は朝鮮県にあったが、その遺跡は、ピョンヤンの旧市街地から大同江をはさんで対岸のピョンヤン特別市楽浪区域土城洞一帯に比定される。大同江南岸の低丘陵地帯に遺存する土城跡からは、「楽浪礼官」「楽浪富貴」の4文字を配した瓦当や、文字を押捺した封泥が出土している。土城跡は、東西約700m、南北600mの範囲に、およそ31haを囲んで平面不整形な土塁がめぐらされている。土城の内部では、古くから種々の遺物が採集されていたが、1935年(昭和10)と37年に、土城内中央の台地の東側斜面で部分的な発掘調査が行われた。その際、瓦葺礎石建物・塼築井戸・塼敷歩道・玉石溝などの遺構や、赤く焼けた漆喰と炭化した木柱、瓦塼、封泥などの遺構・遺物が検出された。これまでに土城内から種々の遺物が出土しているが、瓦塼や土器類がもっとも多く、封泥、金属製武器・武具、漆器、ガラス・水晶製装身具、貨幣、同鋳型と続く。土城跡出土の遺物の中で、とりわけ注目されるのは封泥であって、「楽浪大守章」や「楽浪大尹章」のような郡の官印のほか、「朝鮮令印」「長岑(ちょうしん)長印」「昭明丞印」「不而左慰」など、郡下25の県の令・長・丞・慰の官印が含まれる。

また、楽浪土城跡の南方から東方にかけて、現在のピョンヤン特別市楽浪区域貞栢洞付近一帯には、4000基ともいわれる墳墓が群集して分布する。これらの楽浪墳墓群は1、2世紀のころを境にして、木槨墓から塼築墳へと変化する。木槨墓はたとえば、王光墓で見るように、平面方形の竪穴土壙内に角材をもって槨を作り、L字状に仕切られた内槨に、夫妻用の二つの木棺が安置される。木槨の上部は、やはり角材で横架してから粘土で覆い、さらに封土を盛り上げて方形の墳丘を造る。木棺内からは、被葬者に装着されていた装身具類が出土する。内槨の北から西にあるL字状空間には、被葬者の身分や地位を示す「楽浪太守掾王光之印」の木印をはじめ、土器・漆器・調度品・車馬具・武器など多くの副葬品を納める。木槨墳は、漆器の紀年銘や銅鏡の鏡式から、前漢末より後漢にかけて盛行したことがわかる。一方、塼築墳には塼で横穴式の墓室と羨道を造ったもので、墓室内には二つないし、それ以上の木棺が安置される。副葬品には土器・漆器・武器・銅鏡・貨幣・明器などがあるが、木槨に比べて盗掘を多く受け、出土量は少ない。使用塼の紀年銘や副葬品から見ると、塼築墳は後漢から西晋にかけて、さらには313年の楽浪郡滅亡後の東晋のころまで、長期間にわたって営造され続けたことがわかる。

(西谷正)

以上、転載

 

 

*辞典解説文から漢字ピックアップ


エン、したやく、じょう、たす(ける)