帯方郡〔遺跡〕 たいほうぐん
帯方郡〔遺跡〕
たいほうぐん
Daebanggun Taifanchun
『魏志』韓伝によると、後漢末の建安年間(196〜220)に、遼東地方を掌握していた公孫康は、楽浪郡の南方に当たる屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を設置したと伝える。そして『三国史記』高句麗本紀は、美川王15年(314)に、その帯方郡を攻略したと記す。帯方郡は『晋書』地理志によれば、首県である帯方県のほかに6県があり、戸数は4900戸という。『漢書』地理志を見ると、楽浪郡下の含資県の割注で、帯水は西帯方に至り海に入るとあるところから、帯方郡が西海岸にあって帯水の流域であることがうかがえる。そうなると、帯水をどこに比定するかということが、帯方郡やその治所の位置を決める鍵となる。そこで帯水を、それぞれ戴寧江の支流である瑞興川に考える説と、漢江に考える説が生まれ、さらに、帯方郡の治所が当初の漢江流域から瑞興川流域へ移ったとする説まで現れることになった。帯方郡瑞興川説をとった場合、智塔里土城が帯方郡治跡となり、また周辺にある古墳群の中に、「使君帯方大守張撫夷」有銘塼を使った塼築墳があり、帯方郡大守墓の可能性が高まる。そして、智塔里土城の西方に当たる黄海南道信川郡にも土城があり、その付近で「太康四年三月昭明王長造」有銘塼が出土していることから、昭明県治跡に推定される。さらに、同じ信川郡と安岳郡からは、それぞれ長岑と含資の有銘塼が発見されていて、黄海南道に帯方郡下の諸県が分布することを示す。一方、漢江流域説に立つと、風納土城が郡治跡の候補地となるが、現在のところ積極的な資料に欠ける。そして、塼築墳のような中国式の遺跡も認められない。
(西谷正)
以上、転載
