梁山〔遺跡〕 りょうざん
梁山〔遺跡〕
りょうざん
Yangsan
韓国・慶尚南道梁山郡・梁山市。朝鮮半島東南部の洛東江下流左岸に合流する梁山川流域に位置する。先史時代以来の遺跡の密集地。釜山広域市の通勤圏に入り、また新都市造成計画に関連して、遺跡の発掘調査が盛んに行われている。原三国(三韓)時代には、多芳洞貝塚(梁山貝塚)・南部洞貝塚・新基里貝塚などが形成されて、一つの地域集団を構成していたと考えられる。この時代の集落遺跡としては、平山里遺跡において良好な状態で木柵を伴う環濠集落の遺構が調査された。この地域が文献史料に登場するのは、三国時代に入ってからのことである。『三国史記』には、新羅の脱解王21年(77)と祗摩王4年(115)に黄山津で加耶と戦ったことや、祗摩王10年(121)に甑山城を築いたという記事がそれである。また、味鄒王3年(254)には王が黄山に巡行したと見えるので、年代は不確かであるが、比較的早いある時期に新羅の領域に入っていた可能性が高い。文武王5年(665)には、上州と下州の地を分けて
歃良州を設けたとある。それ以前の慈悲王6年(463)では、倭人が歃良城に侵入したが撃退し、2城を築いたと見える。一方『日本書紀』神功皇后紀5年の条に葛城襲津彦が草羅城(さわらのさし)を攻略したと記す。その後、統一新羅時代に入って、景徳王16年(757)に良州と改名され、さらに高麗時代初期太祖のとき梁州となった。李朝(朝鮮)時代に入ると太祖13年(1413)に梁山郡となり、現在に至っている。
三国時代の遺跡としては、まず梁山夫婦塚・金鳥塚に代表される北亭里古墳群や、谷一つはさんで南側に隣接する新基里古墳群が知られる。そのほか北部洞・中部洞・所土里・草山里・古村里・法基里・周南里・清江里などの各地に古墳群が分布する。いずれも竪穴系横口式石室が主体をなし、竪穴式石室も若干認められる。新基里古墳群の東・南側山頂部には、それぞれ新基里と北部洞の山城が立地する。そこから北方に約16、7㎞地点に位置する蓴池里土城は、新羅が加耶や倭に備えた軍事拠点といわれる。そして通度寺のように、三国時代末期の善徳王15年(646)創建の伝承をもつ仏教寺院も知られる。三国時代で注目されるのは、勿禁の佳村里において検出された5〜6世紀ごろの製鉄遺跡である。統一新羅時代に入ると、前記の古墳群の中に横穴式石室墳を継続して築くものが含まれる。勿禁の凡魚里遺跡では、8世紀ごろの製鉄遺跡も検出された。李朝時代の梁山邑城は『三国史記』神文王7年(687)に見える。歃良州城築造に起源があるかもしれない。『東国輿地勝覧』に記載される円寂山烽燧台
が発掘された結果、『梁山郡邑誌』の記事と符合する内容が明らかにされた。いわゆる文禄・慶長(壬辰・丁酉倭乱)の役のとき築造された倭城は、機張の竹城里城と勿禁の甑山城である。李朝時代では、下北亭遺跡で水田遺構が検出されたことが重要である。ここでは「梁山長興庫」銘のある粉青沙器も出土したが、法基里陶器窯跡などとともに、梁山が陶磁器生産においても重要な地域であったことがわかる。さらに、高麗時代の宣宗2年(1085)に立てられた国長生石標は、蔚州郡に位置するとはいえ、通度寺の境内を標す石碑として知られる。
(西谷正)
以上、転載
*辞典解説文から漢字ピックアップ
歃
ソウ、すす(る)
