名護屋城跡 なごやじょうあと

名護屋城跡
なごやじょうあと

佐賀県唐津市(旧東松浦郡)鎮西町に所在する。文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)の際に、豊臣秀吉が渡海基地として築いた陣城の遺跡。総石垣造りの桃山期城郭の中では国内最大規模の現存例であり、東西600m、南北450m、総面積は17万㎡を越える。主要部は標高89mの独立山丘上に位置し、最高所にある天守を中心に本丸以下の七つの曲輪を展開させ、その北麓には秀吉本館に相当する山里丸と外濠(鯱鉾池)を配していた。各塁線には高さ13mに及ぶ石垣を築くなど、「暫時の陣宿」という本来の設営目的を超越した構造の巨城である。

1591年(天正19)に九州諸大名の分担普請により着工し、その後の戦局の推移に従い、断続的に拡張・改修が施されたが、1598年(慶長3)の秀吉死去に伴う終戦を契機にその存在意義を失い、江戸時代初期に廃城となった。1988年(昭和63)から発掘調査が開始され、これまでに数々の城門、本丸御殿や多門櫓などの本格的な城郭建築の遺構が検出された。また、山里丸で草庵風の茶室跡が、外濠では遊興に供する人工の「出島」が発見されるなど、桃山文化の具体像の理解につながる成果が得られている。近世城郭の初期形態の全容を残す城跡としても貴重である。

なお、周囲には全国から参集した大名の陣所が130ヵ所以上も分布しており、徳川家康・豊富秀保・堀秀治・前田利家らの陣跡の調査により、御殿・茶室・能舞台などといった大名邸宅に匹敵する多様な生活施設の存在が確認された。また、軍事物資の集積により城の北方から港にかけて町場が成立していたが、伝世する『肥前名護屋城図』屏風の描写や現況の地割・古地名によって、都市的興隆を遂げていたことが理解でき、将来の総合的調査が期待されている。

(宮武正登)

以上、転載