平壌城 へいじょうじょう

平壌城
へいじょうじょう
Pyeongyangseong

北朝鮮・ピョンヤン特別市に残る三国時代高句麗の都城遺跡。『三国史記』高句麗本紀には、東川王21年(247)の条に「平壌城を築く」とあり、長寿王15年(427)に「都を平壌に移す」といい、陽原王8年(552)に「長安城を築く」、平原王28年(586)に「都を長安城に移す」とある。現在の市街地には、数ヵ所に石築の城壁が残るに過ぎないが、半世紀余り前まではこれが全域を囲み、またその中を4区分するように延々と全長23㎞にわたって連なっていた。長寿王15年に遷都した「平壌」が現在の市街地かどうかについては、諸説がある。しかし、少なくともこれらの築造は高句麗時代にさかのぼるものである。そして最北の一番小さい区域を北城、その南を内城・中城・外城と呼び、いまの平川区域に当たる外城には、主軸が北で東に振る方格地割が施され、いまもその痕跡が残る。東川王時代の「平壌城」も実際にどこを指すのか、確定的な資料はないが、6世紀半ばに築いた「長安城」がほぼ現在のピョンヤン市街地を指すことは、城壁に組み込まれた城石に文字が刻まれた刻字城石(または城壁石刻)が見つかっていることからわかる。このような城石は、これまで5個存在したことになっているが、もっとも新しく1964年に発見された城石の文字は「封婁蓋切小兄加群自此東廻上□里四尺治」と読める。城壁築造の担当者であり、小兄の位にある加群は、封婁蓋切に属していて、ここから東回りに1里4尺を修築するという意味に理解される。その他の刻字城石も築造担当者と工事区間を記している点は基本的に同じであるが、頭初に干支で「丙戌年」「己酉年」と見えるものがあり、それぞれ長安城遷都(586年)前後の566年、589年と考えられている。

(永島暉臣慎)

以上、転載