水城跡 みずきあと
水城跡
みずきあと
福岡県太宰府市・大野城市に所在する古代の土塁。『日本書紀』天智天皇3年(664)の記事に見える「於筑紫築大堤。貯水、名曰水城」から、その築造年代と構造をうかがうことができる。白村江の戦いによる敗戦を起因とする、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築造された。長さ1.2㎞、幅80m、高さ10m強の土塁である。1913年(大正2)の黒板勝美・中山平次郎の土塁の調査、30年(昭和5)の長沼賢海による木樋の調査はあるが、本格的な発掘調査は70年(昭和45)に始まったといってよく、それ以降、福岡県教委・九州歴史資料館・太宰府市・大野城市により継続的に調査されている。土塁の外側(博多湾側)に幅60mの濠が存在し、木樋の埋設個所が少なくとも3ヵ所認められること、土塁の構築が3段構成で、本体部分は版築工法を用い、基底には軟弱地盤の補強工法として敷粗朶や梯子胴木といった現代の土木技術にも劣らぬ土木後方で築造されていたことが明らかとなった。これらの工法は朝鮮半島の山城に見られ、その関連が注目される。さらに近年の調査で、西門跡の規模や構造が明らかとなり、また基底部における瓦窯・瓦製作工房跡、欠堤部での濠の存在などが判明している。
(横田賢次郎)
以上、転載
