装飾古墳 そうしょくこふん

装飾古墳
そうしょくこふん

日本列島の古墳や横穴のうち、おおむね5〜7世紀にかけて、遺体を納めた棺やこれを覆う槨(室)の内外に各種の文様とか像を表現する例の総称で、濱田耕作の命名による。「壁画古墳」ともいうが、列島以外では装飾古墳と呼ばないのが通例である。表現技法は、彫刻系と彩色系とに二大別され、併用例もある。彫刻系では浮彫りが線刻に先行する。彩色系では地塗りせず岩肌に直接描くのが原則である。ただし、全面を赤く塗り潰すだけの例は除外する。横口式家形石棺に直弧文ほかの文様を浮彫りして赤く塗る福岡県石人山古墳を最古例とするが、もともと家形石棺は畿内系であり、直弧文にしても吉備地方の弧帯文を淵源としている。また、石棺に鏡や家屋などを彫刻する先駆的な例が、少数ながらも越前や吉備に存在する。したがって装飾古墳は、九州の地で独自に案出されたのではなく、畿内とその周辺で先行したこれらの要素を複合させて墓制に持ち込み、独特の展開を見せたのが九州といえる。

装飾古墳は、すでに消滅した例を含めても約600基に過ぎず、古墳や横穴の全体から見れば少数派である。他方、高句麗・新羅・百済の3国の壁画墓総数は約80基と意外に限られており、実例の多寡自体が彼我の墓室壁画に見られる差異の一つとなっている。分布状況も熊本県に最多の180基以上、福岡県の約70基をはじめ、鹿児島県を除く九州にその過半が集中し、山陰・関東・東北などにも分布する。畿内では高松塚・キトラ両古墳などがあくまで例外的に存在するに過ぎず、中枢にではなく周縁部に偏在しており、強い地域性を示す。

絵画的な特色は、大陸の壁画墓とは異なり、①墓主像を描かない、②幾何学的な文様を主体とする、③各種の文様や像は影絵的に表現される例が多い、の3点に集約される。写実性を欠くのは、表現力の差に由来するのではなくて、写実的に表現することをあえて避けようとする、ある種の禁忌や儀軌にしたがったものであろう。なお、児童画との共通性も指摘されているが、描き手は子供ではない。絵具には赤・白・黄・緑・青・黒の6色が知られている。赤は共通色であるが黄は意外に少なく、白・緑・青も少数派、黒にいたっては地域限定色である。手近の粘土や岩石を原料としたが、色によっては一元的に供給された可能性もあるという。全体として、これらの壁画の要素や構成は、大同小異との印象を受けるが、熊本県の紐付同心円文、福岡県の蕨手文、福島県の大型渦状文など、局地的にしか使用されない文様もあるなど、斉一性を保ちつつも独自性をも維持しようとした先人の心情が読み取れる。個々の文様の意味は難解だが、円文は鏡・太陽・眼などを表したと見てよい。

当時の列島では、中国・高句麗・新羅とは異なり、あの世とこの世は別と意識されたようで、あらかじめ必需品を墓に持ち込んで、死後の世界での生活に供えるという配慮は希薄で、それが壁画の主題や構成に影響を与えた。墓に壁画を表現するという着想・刺激は、大陸から伝播したものの、大陸に主題・技法のいずれにおいても直接のモデルが見当たらないのは、その意味では当然といえる。装飾古墳は、当時の列島における多様な精神生活の一斑を示唆するとともに、周辺地域の首長層によって、広域的な連帯の証として、ことさらに造営されたという政治的側面を合わせ持つ。

(石山勲)

以上、転載