窯〔朝鮮〕 かま〔ちょうせん〕

窯〔朝鮮〕
かま〔ちょうせん〕

土器・陶磁器や瓦塼などを焼成する施設で、その遺構は各種の窯跡として残る。現在のところ最古の窯跡は、原三国(三韓)時代の土器窯跡にさかのぼるが、三国時代に入ると、各地で土器・瓦塼窯跡が知られる。新羅では、王都があった慶州盆地の周辺部で数ヵ所の新羅土器の窯跡群が分かっている。いずれも低丘陵の傾斜面に築かれた登窯と思われる。そのうち、慶州市の蓀谷洞遺跡では、全部で47基の窯跡が調査されたが、1基の地下式を除いて、ほかの46基はすべて半地下式の登窯であった。ここでは、工房跡4軒や採土場跡なども見つかっている。百済では、数ヵ所の遺跡で、やはり半地下式登窯跡のほか、後期の王都があった扶余の近郊で土器と瓦をいっしょに焼いた瓦陶兼業窯跡が発掘されている。加耶でも、何ヵ所かで半地下式登窯跡が発掘されている。慶尚北道高霊郡の内谷洞には未発掘であるが、大規模な窯跡群が知られる。この窯群は、大加耶国の古墳群がある池山洞などへの供給窯と考えられる。統一新羅時代では、慶州の周辺で、三国時代以来引き続いて窯が造営された。望星里窯跡は初期の新羅土器窯跡といわれ、また金丈里窯跡は、三国時代から統一新羅時代にかけて、皇龍寺・高仙寺・臨海殿などへ供給された瓦窯跡である。王都から遠く離れたソウル特別市の舎堂洞窯跡もこの時期のものであるが、土器片の陰刻銘から、生産地が「器村」と呼ばれたことがわかる。

高麗時代以後、陶磁器が盛んに焼造されるようになるが、仁川広域市の景西洞や黄海南道の円山里の窯跡は初期青磁の窯跡である。各種の高麗青磁の窯跡は、全羅北道の扶安や全羅南道の康津で大規模な窯跡群が認められる。いずれも単室の登窯である。無釉の土器窯跡も発掘されているが、小型である。李朝(朝鮮)時代では、王都があったソウルに近い京畿道の広州は、白磁の一大窯業地帯を形成していた。忠清南道の鶏龍山は、主として三島(粉青沙器)など、各種陶器の窯業地帯として知られる。この時期の窯も基本的には前代以来の焼成部が長い単室の登窯であるが、全羅南道の長興部をはじめとして、短い焼成部が連なった連房式のものもわずかに見られる。李朝時代の瓦窯跡の調査によると、地下式登窯で小型のものが発掘されている。

(西谷正)

以上、転載