吉木薩爾城跡 きちぼくさつじじょうあと
吉木薩爾城跡
きちぼくさつじじょうあと
Jimusaer-chengzhi
中国・新疆維吾爾族自治区昌吉回族自治州にある古代の城跡。吉木薩爾県の北約12㎞の地点に所在する。俗称は「破城子」である。城跡は天山山脈北麓に広がる傾斜地と、ジュンガル盆地グルバントンクト砂漠とが接する平原上に占地する。東は哈密(ハミ)、西は烏爾木斉(ウルムチ)を経て伊犂(イリ)河流域へ、また南は天山を越え、吐魯番(トゥルファン)へ通じ、さらに北方は、ゴビ砂漠の外方にモンゴル高原が連なるという要衝の地であるため、一帯には多くの遺跡が分布している。同城跡については、清嘉慶年間(1796〜1820)の徐松の報告以来、1908年に橘瑞超・野村栄三郎・ドルベジェーワ、14年にはスタイン、28年に中国・スウェーデン西北科学考察団、袁復礼、次いで53年に西北文化局、57年に新疆維吾爾族自治区文物管理委員会・新疆維吾爾族自治区博物館、80年に中国社会科学院考古研究所新疆工作隊によって調査が行われている。
城は外城と内城より構成され、平面的には南北に長い不定長方形を示す二重構造を呈している。その外城の外周は4596m、基底部の幅5〜8m、頂部の幅2〜5m、現高3〜5mを測る。城壁はすべて版築されている。城門は、外城の四壁にそれぞれ1基ずつ設けられているが、特に北門は鈎手状の甕城をなす。そのほか雉・敵台・角楼・羊馬城・護城壕などの構成要素が確認されている。内城は、版築による外周3003mの城壁がめぐるが、外城のような堅牢さはない。城門は北壁中央に位置する北門と、西壁中央やや南よりに位置する西門の2基が確認されている。特に西門に墻垜が遺存している点が注目される。そのほか、外城と同じく雉・敵台・角楼・護城壕が確認される。また、場内の遺構は内城・外城を問わず、甚だしい破壊を受けている。現在は、わずかに建築跡を12基確認するのみである。それら建築跡を中心に塼など建築部材・陶器片のほか、銅銭(開元通宝・乾元重宝)・仏像・銅鏡(禽獣葡萄鏡)・印章(蒲類州之印)・石獅子・刻花石球・唐金満県残碑などが出土している。
城が機能した時期については、それら諸建築の調査結果を踏まえ、外城は唐代初めに、内城は高昌回鶻時代に造営されたことが推測される。また、内城の造営と同時に外城についても修復がなされ、元代末〜明代初に廃棄されたと理解されている。吉木薩爾城は、その地理的な位置に加え、かつて城内で唐金満県碑・唐造像碑・元造像碑片が出土したことから、城跡が唐代庭州金満県・北庭都護府の遺跡であると考えられている。今後は外城の西門外方約800mに、高昌回鶻時代の寺院跡が所在していることも重ね合わせ、城外の施設の配置についても精査が求められている。
(高橋学而)
以上、転載
*辞典解説文より漢字ピックアップ
墻
ショウ、かき、へい
垜
ダ、タ
*mapは吉木薩爾県
