固原遺跡群 こげんいせきぐん

固原遺跡群
こげんいせきぐん
Guyuan-yizhiqun

中国・寧夏回族自治区の南部、戦国秦長城の内側に位置し、周辺の省都蘭州(甘粛)、銀川(寧夏)、西安(陝西)からいずれも350〜400㎞離れた古来よりの交通の要衝であった固原の遺跡群。固原は前漢元鼎3年(BC114)に置かれた安定郡の郡都となり、北魏太延2年(436)に高平鎮が設置され、正光5年(524)原州に改名された。固原の現市街地周辺には黄土台地が広がり、新石器時代から清時代に至る豊富な遺跡群が存在する。

これらの遺跡群の発掘調査は、まず1970年代後半に現地の研究者によりなされた。初期は主に西郊郷の漢墓がその対象であったが、1981年に東郊郷雷祖廟村の北魏漆棺墓(北魏太和年間、477〜499年)、82年より南西郊外の北朝隋唐墓地に移り、同年秋に南郊郷王労覇村の史道徳墓(唐儀風3年、678年葬)と82M2唐墓を、83年秋に西郊郷深溝村の*李賢墓(北周天和4年、569年葬)を、85年に南郊郷羊坊村の史索岩墓(唐麟徳元年、664年葬)を、87年に南郊郷小馬庄村の史射勿墓(隋大業5年、609年葬)、史訶耽墓(唐総章2年、669年葬)、南郊郷羊坊村の史鉄棒墓(唐咸享元年、670年葬)、梁元珍墓(唐経歴2年、699年葬)、87M1唐墓を、93年に南郊郷王労覇村の宇文猛墓(北周保定5年、565年葬)を発掘した。95年からはこれに日本隊が加わり、原州聯合考古隊を組織して、95年に南郊郷小馬庄村の*史道洛墓(唐顕慶3年、658年葬)を、96年に西郊郷大堡村の*田弘墓(北周建徳4年、575年葬)を発掘した。

固原遺跡群からは、李賢墓出土の鍍金銀胡瓶・浮出円形切子ガラス碗、北魏漆棺墓・史射勿墓出土のササン朝ペーローズ銀貨、史道洛墓・田弘墓出土の東ローマ金貨といった西方製の文物が直接流入したもの、史索岩墓・史道徳墓出土の倣製東ローマ金貨や、史鉄棒墓出土の倣製ササン金貨といった西方製品の模倣品、史道洛墓・史訶耽墓・史鉄棒墓で出土の高鉛ガラス製六曲坏といった西方デザインを採り入れながら、中国産ガラス素材で造り上げた中国製品など、当時のシルクロードを介した流通・交易・独自生産の実態を示す貴重な資料が多数出土している。

(谷一尚)

以上、転載

 

*李賢墓は こちら 
*史道洛墓は こちら 
*田弘墓は こちら 

 

 

*mapのピンは固原市中心部の寧夏固原博物館