瑞鳳塚 ずいほうづか
瑞鳳塚
ずいほうづか
Seobong-chong
韓国・慶州市路西洞に所在し、金冠塚の西に接している、三国時代新羅の古墳。1926年(大正15)に発掘された。南北径52m、東西短径35m、高さ7mが残存していた。南北方向に築かれた双円墳で護石がめぐる。その切り合い関係から見て北墳が先に造られている。北墳(瑞鳳塚)のみが発掘された。径36.3mを測る。木槨は地山層を60㎝掘りさげ、東西4.7m、南北3.7mの墓壙内に造られた。木棺は17㎝の角材を用いて、東西3.8m、南北2.0mの規模である。積石は槨底から4.75m、長径17.6m、短径約10mにわたる。さらに積石を黒褐色の粘土でつつみ、盛土したという。木槨・木棺内で金製の冠・腰佩・指輪、ガラス器・青銅鐎斗・銀製盒が出土した。銀盒に「□寿元年太歳在辛三月□太王敬造合杅三斤」(盒外底)、「延寿元年太歳在卯三月中太王敬造合杅用三斤六両」(盒蓋内部)の銘文がある。辛卯は391・451・511年であるが、高句麗長寿王39年の451年説が有力である。副葬品の組合せから、被葬者は女性という説もある。山字形金冠は、皇南大塚北墳・金冠塚・金鈴塚・天馬塚で出土しているが、王ないし王族墓に限られる。
瑞鳳塚は、5世紀第3四半期ごろ、つまり金冠塚とほぼ同じ時期である。双円墳で南墳が北墳より、墳丘規模は小さい。慈悲王(458〜479)のころの王族墓と考えられる。また、瑞鳳塚の金冠を模倣した金銅冠が、大邱達西37号墳や伝蔚山出土品に見られる。瑞鳳塚は学術調査(小泉顕夫担当)で、墳丘・埋葬施設の構造が明らかにされた。「木槨内の副葬品の配置や木棺内での装身具を装着の状態」で把握し、撮影する試みもなされた。ただ報告書は未刊である。スウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子の見学があり、「瑞典」と金冠の鳳凰飾りを組み合わせて、瑞鳳塚と名付けられた。古墳は現在もなお慶州古墳公園の一角に金冠塚などとともに保存され、発掘の経緯を含めた案内板も立っている。
(東潮)
以上、転載
*辞典解説文より漢字ピックアップ
佩
ハイ、おびだま、お(びる)、は(く)
鐎
ショウ
意味:「鐎斗」は行軍に用いた炊飯用鍋。三足で柄がつく。
盒
ゴウ、さら、ふた、ふたもの
「瑞典」=スウェーデン、Sweden
