真興王拓境碑 しんこうおうたっきょうひ
真興王拓境碑
しんこうおうたっきょうひ
Jinheungwang-cheokgyeongbi
朝鮮半島・三国時代新羅の第24代真興王が領土の境域を開拓し、そこに巡狩したときに立てた記念の石碑で、拓境碑もしくは巡狩碑・巡狩管境碑などと呼ばれる。戦前から4碑が知られてきた。1914年(大正3)に発見された昌寧碑は、慶尚南道昌寧郡昌寧邑にあり、辛巳年(561)に立てられた。高さ約1.75mの平たい自然石に、27字27行合計643文字が刻まれた。古く19世紀前半から、金正喜『金石過眼録』によって知られてきた黄草嶺碑は、咸鏡南道咸州郡下岐川面に、太昌元年(568)に立てられたが、現在は咸興歴史博物館に移されている。高さ約1.38m以上の直方体の加工石に、32字12行推定合計412文字が刻まれた。
この碑から東方に約115㎞ほど離れた、咸鏡南道利原郡東面で、1929年(昭和4)に発見された磨雲嶺碑も同じ太昌元年の建立である。この碑も現在、咸興歴史博物館に移されている。高さ約1.47m以上の直方体の加工石に、26字前面9行、後面8行合計415文字が刻まれた。碑身の上端は一段狭く作られているので、上に笠石が載っていたものと思われる。下端は部分的に少し欠損している。すでに古く、1816年に発見された北漢山碑は、ソウル特別市鐘路区旧基洞の北漢山の山頂の巨岩に彫りこまれた台座の上に立てられていたが、現在はソウルの国立中央博物館に移されている。高さ約1.55mの直方体の加工石に32字11行以上にわたって刻字されている。碑身上端には、磨雲嶺碑と同じような仕口が見られるので、もとは笠石が載っていたと思われる。これらの碑文は大きく年月日を含む題記、巡狩した地域、高官・高僧などの随行者の三つの部分から構成される。その内容によって、6世紀中頃の新羅における中央・地方の官職制、身分制、行政・軍事組織などを知ることができるきわめて重要な文字資料である。
1978年に、忠清北道丹陽郡丹陽邑の赤城山城跡で発見された赤城碑は、前記4碑に先立って真興王が立てた一種の巡狩碑である。さらに、1982年に京畿道楊州郡南面の紺岳山の山頂にある石碑が調査された。高さ1.7mの石碑は北漢山碑と酷似する形状をなし、笠石も載っている。しかし碑身の摩滅がひどく、碑文の内容がほとんど判読できないのは惜しまれる。なお、たとえば北漢山碑のように、『三国史記』に見える真興王29年(568)の北漢山州設置記事と、石碑建立が符合する点は注目される。そして、たとえば磨雲嶺碑のように、その付近で新羅式の横穴式石室墳が築造されることも示唆に富んでいる。
(西谷正)
以上、転載
