興徳王陵 こうとくおうりょう

興徳王陵
こうとくおうりょう
Heungdeokwang-neung

韓国・慶尚北道慶州市安康邑六通里にあって、統一新羅時代に当たる、新羅第42代興徳王の陵。慶州北方に遠く離れた低丘陵地帯に立地し、文献史料と陵碑から興徳王陵として、王陵が特定できる数少ない例である。平面円形、直径約22mをなす墳丘の裾には、寺院建築における壇上積基壇のような化粧石つまり護石と、その外側に石欄干がめぐらされている。そして、護石の束石の部分に、浮彫りされた獣頭人身の十二支神像が配される。円墳の周囲と前面にはそれぞれ石獣と石床が、また前方には文人・武人・望柱の石造物が左右に対をなして並ぶ。さらに、これらの東方には亀趺が残る。亀趺付近で慶州史蹟管理事務所が1977年に発掘調査した際、碑閣建物跡と石碑断片70点余りを検出した。そのほかにも、断片はいくつかの機関が所蔵しており、相当数にのぼる。その中には「興徳」銘などが含まれているので、そこに興徳王陵の陵碑が立っていたことがわかる。なお『三国遺事』は、興徳王陵は安康の北の比火壌にあることと、妃の昌花との合葬を記す。また『三国史記』では興徳王11年(836)の薨去に際し、遺言により章和夫人の陵に合葬したと記す。

(西谷正)

以上、転載