舞踏塚 ぶようづか
舞踏塚
ぶようづか
Wuyung-zhong
Muyon-chong
中国・吉林省集安市の禹山南麓の通溝平野にある三国時代高句麗の墳墓。舞踏図などの壁画が著名であり、南東方に約4mを隔てて角抵塚に接して2基が並んでいる。ともに1935年(昭和10)に日満文化協会によって調査された。舞踏塚は一辺約15m、高さ約3m余りの方墳のほぼ中央に、南西方向に開口する横穴式石室がある。内部はすでに盗掘を受けており、出土遺物は不明である。壁面には厚い漆喰が塗られ、そこに絵画と文様を複雑多種に描いている。主要な壁画を見ると、玄室の奥壁には、帳房内で床几に座る主人公の肖像画を描き、僧侶あるいは道士と思われる人物と対応している。それに続く東壁には上・下に1棟ずつの小型建物があり、台所から食膳を運ぶ様子などが見られる。建物の横には騎馬人物像と男女の舞踊図などが見られる。反対側の西壁には狩猟図が大きく描かれ、そして天井部には天人・飛天・角抵(相撲)・弾琴する男女・四神・蓮華などの図像が描かれる。玄室両前壁から通路両壁にかけては、それぞれ1本の大きな樹木図が見られる。羨道の壁画は剥落がひどいが、板葺きの建物や男子の図像などが認められる。5世紀前半ごろの所産である。
角抵塚は、規模・構造とも舞踊塚に近く、壁画内容も似ている。ことに玄室西壁に描かれた、樹下で角抵する力士像と行司役の老人像は名高く、墳墓の命名の由来になった。
(西谷正)
以上、転載
