碇 いかり
碇
いかり
1931年(昭和6)以降、博多湾の浚渫工事で碇石が数多く引揚げられている。長さが2〜3mの角柱状で、中央に最大幅があり、両側がやや狭くなる。中央には碇を固定するための枠帯と溝がある。このような定型的な碇石は、博多湾のほか唐津の神集島、呼子の加部島、平戸、壱岐や五島など北部九州に分布しており、博多湾型碇石と呼んでいる。1974年(昭和49)に中国・福建省泉州で長さ34mの沈没船が発掘され、積荷から南宋後期の交易船であること、「丘碇水記」の木簡から石の碇が使用されていたことが確認された。その後、泉州湾から博多湾型と同型の碇石が発見され、宋・元代の交易船の碇と考えられるようになってきた。このような碇石は、沖縄の恩納村や久米島、奄美大島、山口県の萩、ロシアのウラジオストックなどでも確認されており、交易船の広範な活動を裏づけている。最近、太平洋側の茨城県波崎町からも発見例が報告されている。これに対し、長崎県鷹島の海底から数多くの遺物が引き揚げられた中に、二つの碇石を組み合わせた碇が検出されており、2度目の蒙古襲来に当たる1281年(弘安4)に台風で沈没した元軍船の碇と、交易船の碇が形を異にしていることが確かめられている。
(柳田純孝)
以上、転載
