入墨 いれずみ

入墨
いれずみ

『古事記』『日本書紀』には、古代の日本で入墨が行われていたことを推測させる記事があり、記紀によれば、顔の入墨とその状態を「黥面(げいめん)」、顔以外のそれを「文身(ぶんしん)」と呼び分けている。入墨は非農耕民の習俗であったと考えられる。シベリアの紀元前後におけるパジリク文化の乾燥した遺体などの事例がない限り、。考古学的に入墨の存在を証明するのは困難であるが、5〜6世紀の顔面に線刻があるいわゆる黥面埴輪の特徴と、『古事記』『日本書紀』の記述には一致した点が多いので、古墳時代に特定の集団が顔に入墨をしていたことが類推できる。しかし、黥面埴輪の線刻は顔面塗彩を表現したという見解もある。弥生時代終末から古墳時代前期の3〜4世紀、入墨をしたと思われる顔を、同一のモチーフで描いた絵画土器が、岡山県域から茨城県域にかけて分布する。これらは、同時代の史書である「魏志倭人伝」に見られる、倭人の男子は皆顔に入墨をしているという記述を彷彿させる。このモチーフの起源は縄文時代の土偶のあるものにたどることができるが、土偶の顔面装飾をすべて入墨と見なすことはできない。

(設楽博己)

以上、転載