七支刀 しちしとう
七支刀
しちしとう
奈良県天理市の石上神宮に古くから伝えられてきた鉄剣。全長約75㎝の剣身の両側に三つずつの枝刃を交互に造り出した特異な形態をなす。剣身の表・裏両面には、それぞれ34文字と27文字、合計61文字が金象嵌を施して刻まれている。銘文の釈読には、明治以来約100年の研究の蓄積があるとはいえ、諸説があっていまだ定説を見ていない。一説を紹介すると、〔表面〕「泰和4年(369)11月16日の丙午と正陽をえらんで、よく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀はあらゆる兵器による災害を避けることができ、礼儀正しい侯王が所持するのにふさわしいものである。□□□□の作ったものである(または、所持者は大きな祥(さいわい)を得ることができる)。」〔裏面〕「先世以来、このような刀はなかった。百済王(近肖古王)の世子(近仇首王)である私は、神明の加護を受けて現在に至っている。そこで倭王の為にこの刀を精巧に造らせた。この七支刀が末長く後世に伝えられることを期待する。」銘文の内容は、七支刀が百済王から倭王に献上されたと永らく解釈されてきた。この場合、『日本書紀』神功皇后52年の条に見える、「久氏(くてい)らが、千熊長彦に従ってやってきた。そして、七支刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡一面(ななつこのかがみひとつ)、それに種々の重宝を献った」という記事と結びつけ、その七支刀に当たるものとされた。ところが、1960年代に入って、北朝鮮の学界から、まったく逆の解釈、つまり、七支刀は百済が侯王の一人である倭王に下賜したものとする見解が提示された。しかし、七支刀をめぐって、献上とか下賜という上下の関係ではなく、百済の太子から倭王に贈与されたものと考えられている。そして、その背景には、対高句麗の軍事同盟の盟約を記念する意味が込められていたようである。いずれにしても七支刀は、4世紀後半の百済と倭の関係を考える上で、第一級の資料といえる。
(西谷正)
以上、転載
