クラスノヤロフ山城跡 くらすのやろふさんじょうあと

クラスノヤロフ山城跡
くらすのやろふさんじょうあと
Krasnoyarovsk site

ロシア・沿海州地方のウスリースク市の南郊、麓下の西北面をスイフン河が流れる河川屈曲部の急峻な半独立の山塊を利用して築かれている山城。少なくとも金・東夏代に機能していたことが推測されている。ウスリースク市の発展に伴い、大きく破壊されたウスリースク双城子城跡は対岸の北麓に位置する。その存在については早くから知られ、帝政ロシア末期の19世紀後葉にはロパティン、ブッセらによって踏査され、多くの調査資料が公刊されている。城内から検出された多量の石弾についてのカファロフの報告、また踏査を行った鳥居龍蔵によって紹介されたことがある1913〜16年時のフョドロフの報告などは貴重である。その後、隊長オクラード二コフ、副長ザベリナの指導により、極東考古学調査隊のヴォロシロフ支隊が、1955年とその翌年にわたり、城内でオンドルを有する住居を発掘し、その成果が支隊のヴォロビョフによって報告されている。

山城は、現高3〜4m、最高所5mに達する土築、一部石築の城壁によって築かれ、その全域は面積200ha以上と推定されている。長大な外郭線に囲繞された広大な内部は、大きく三つの構成要素に分けられる。城内は、階段状に築成したテラスで多くの住居跡が発見され、度重なる調査で鴟尾・塼瓦片・開元通宝銭・北宋銭・鎧の小札などが出土した。また近年、1995年以来数次にわたって調査が行われ、特に2000年次の調査では、内城部から3×4間の総柱礎石建物、かつてヴォロビョフが報告したものと同様のL字状のオンドルを有する住居跡が検出されている。この山城については、渤海率賓府跡に当てられる平原城である。麓下のウスリースクの双城子城跡との関係から、渤海時代にその起源を求める見解もあるが、城内出土の遺物に加え、完顔忠墓神道碑の存在から、山城そのものを金代の恤品路の治所に当て、あるいは治所を双城子城跡に推測しながらも、その逃げ城として理解する見解が示されている。

高橋学而

以上、転載

 

*mapのピンはウスリースク