峨嵯山山城 がささんじょう

峨嵯山山城
がささんじょう
Achasan-sanseong

韓国・ソウル特別市広津区・中浪区から京畿道九里市にかけて所在する堡塁群と、山城などの軍事施設の総称。峨嵯山東側の斜面に位置する峨嵯山山城を中心として、西側稜線上にある峨嵯山堡塁群からなる。機能的にはさらに西側の龍馬山堡塁、北東側のシル峰堡塁、南側の九宜洞遺跡などを含めた総合的体系を持つ防御施設と考えられる。峨嵯山城そのものはソウル特別市広津区に所在し、周長は1㎞あまりで平面形は不整な六角形を呈する。調査の結果、石築による城壁であることが確認された。城壁調査時に出土した遺物からは、ほぼ7世紀から9世紀頃までの存続期間が想定されている。ただし、『三国史記』には「阿且城」「阿旦城」など、広開土王碑には「阿旦城」として現れる城に該当すると考えられ、初築の遺構や年代については、未詳の部分が多い。

堡塁のなかでは、1997〜2000年にかけて峨嵯山第4堡塁とシル峰堡塁が発掘調査された。そのうち第4堡塁は峨嵯山の稜線北端に位置し、傾斜面に石築城壁が、高さ4m、長さ約210mにわたって検出されている。城壁内部からは平面長方形の7基の建物が検出されており、そのうち3号建物跡は長さ約46mに達し、内部には3ヵ所のオンドル施設と2ヵ所の貯水施設および排水施設と見られるものが発見された。第4堡塁の出土遺物としては、貯蔵用の土器が多いことと、鉄器のなかでは武器類と農工具類が多いことが注目される。また、土器類は高句麗土器の特徴を持ち、「後部都□兄」「冉牟兄」「下官」などの線刻文字が認められた。また、シル峰堡塁でも石築城壁と建物跡などが検出されており、同様の属性を有する施設と考えられている。これらによって、峨嵯山第4堡塁に代表される堡塁群は史料上で、5世紀後半から6世紀中頃まで漢城を占拠したことが記されている高句麗の残した軍事的施設と位置づけられている。

(門田誠一)

以上、転載