チャシ ちゃし
チャシ
ちゃし
北海道のアイヌ文化期の遺跡で、16~18世紀に造られたもの。正確にはチャシ・コッ(跡)で、「チャシ」はアイヌ語で砦・館・柵・柵囲いを意味する。語源は朝鮮語のサシ、あるいはチャシからという知里真志保の説、チ・アシ(我々・立てる)のアイヌ語という金田一京助の説がある。チャシの研究は、1906年(明治39)の河野常吉の「チャシ即ち蝦夷の砦」に始まり、1970~80年代の北海道チャシ学会や北海道教委の踏査、測量調査などによって実態が明らかとなり、現在では全道で500ヵ所近く確認されている。釧路・根室・日高地方に多くみられ、河川流域・湖岸・海岸の見通しの良い丘陵や段丘の先端・縁辺に立地することが多い。
形態は舌状丘陵を壕で区切る丘先式、段丘の縁辺に半円形やコの字状の壕をめぐらす面崖式、独立丘に周壕をめぐらすか、テラス状の削り出しをする丘頂式、湖や湿地に島状にある孤島式(河野広道分類)および、その複合式に分類される。また、立地から臨川性・臨湖性・臨海性と分類することもある。壕は空壕で多くは1条であるが、数条見られるものもある。上幅は4~5m、深さは2~3m、断面はUないしV字形で、掘り上げ土を壕の内外に土塁状に盛り上げることが多い。江戸時代の文献では防御や戦闘用の砦、ユーカラでは戦闘・聖域・儀礼・談合の場として語られ、発掘調査では内部に建物跡、壕の周囲に柵列などが確認されることが多い。本来的には日常の場から区切られた聖域で、儀礼や談合の場であったものが、アイヌ社会内または対和人との抗争の中で、防御・戦闘用の砦の性格が強まった可能性がある。
類似するものとしては、東北・北海道の古代・擦文文化の環濠集落や館、本州の山城、南西諸島のグスク、さらにシベリア大陸のゴロディシチェ、カムチャッカ半島のオストローグがあり、単なる戦闘・防御用だけでなく祭祀場的な性格も有することからいえば、グスクとは共通点がある。その成立については明らかになっていないが、アイヌ文化の解明には欠かすことができないものである。
(長沼孝)
以上、転載
