帯方太守張撫夷墓 たいほうたいしゅちょうぶいぼ

帯方太守張撫夷墓
たいほうたいしゅちょうぶいぼ
Daebangtaesu Jang Mui-myo   Taifantaishou Chang Fu i-mu

北朝鮮・黄海北道鳳山郡智塔里の帯方郡治跡と推定される智塔里土城の西北4、5㎞の地点に築かれた塼築墳。朝鮮総督府が1911年(明治44)に発見し、調査を行った。一辺約30mの方墳の内部に塼築の墓室を造った。墓室は墓道・側室・主室からなり、全長7.2mを測る。塼室構造の所用塼には「使君帯方大守張撫夷塼」の銘のあるものが含まれるので、この墳墓の被葬者は、帯方太守の張撫夷で、字名もしくは尊称が使君であることがわかる。ほかの所用塼の中に、張撫夷が漁陽すなわち現在の中国・河北省密雲県の出身であることを示すものが含まれる。そのほか、戊や申の紀年干支銘があって、塼築墳の編年観から考えて、戊申年を西晋武帝の太康9年(288)に当てるのが妥当であろう。こうして、張撫夷墓の発見は、智塔里土城を帯方郡治跡とするのに有利な資料となった。

(西谷正)

以上、転載