敦煌莫高窟 とんこうばっこうくつ
敦煌莫高窟
とんこうばっこうくつ
Dunhuang-Mogaoku
中国・敦煌県から東南約30㎞に位置し、鳴沙山の東側の崖に2、3段に渡って穿たれた石窟寺院群。北区にある第461窟から第465窟を含め、総数492窟を数えるが、近年、北区の他の石窟にも新たな考古学的調査を行い、編号を付したので、その総数はさらに増えている。
『重修莫高窟仏龕碑』によれば、前秦の建元2年(366)に僧の楽僔がここに石窟を開いたというが、現存する石窟でもっとも古いのは、第268窟・第272窟・第275窟など、北涼時代のものである。石窟造営や補修は、その後清時代まで続けられた。『中国石窟 敦煌莫高窟五 付篇 敦煌莫高窟内容総録』(1982, 平凡社)に収録する「莫高窟時代別窟一覧」によれば、492の石窟は次のように時代分けされている。北涼(421〜439)7窟、北魏(439〜534)14窟、西魏(535〜556)7窟、北周(557〜581)15窟、隋(581〜618)94窟、初唐(618〜712)46窟、盛唐(712〜781)97窟、中唐(781〜848)55窟、晩唐(848〜907)81窟、五代(907〜960)26窟、宋(960〜1036)15窟、西夏(1036〜1227)17窟、元(1227〜1368)9窟、清(1644〜1911)2窟、不明7窟。石窟は開鑿当初の姿を留めていることは少なく、多くの石窟は後代に補修を受けている。
莫高窟の石質は砂岩である。石窟内は隙間なく壁画が描かれ、彩色された塑像が安置されていた。北涼から北周までの石窟には、方形の主室に方柱(中心柱)を造り、折り上げ天井(人字坡)を頂く前室を持つ形式と、方形の主室に平天井または伏斗形天井を頂く形式が見られる。壁画の主題は、釈迦説法図や千仏図に加えて、仏伝図や本生図が多く、彩色や隈取りの手法に中央アジアの美術の影響が見られる。西魏の第249窟や第285窟では、天井に中国の神話的な素材が取り上げられ、また第285窟では仏教化したインドの神像が描かれている。隋代初期にはまだ方柱窟の型式が見られるものの、隋代以降は、方形の主室に伏斗形の天井を頂く形式が多くなった。隋代以降の壁画には大乗経典を典拠とする経変が増え、様式は次第に中国化が顕著になった。唐代には中央の様式が導入され、多彩な構成を持った経変や浄土図が描かれ、吐蕃の占領期には、西蔵(チベット)の要素ももたらされている。
敦煌莫高窟からは、教典や文書、絹や麻・紙に描かれた絵が多数発見されている。1900年に王円籙が第17窟から発見したもので、07年イギリスのスタイン、08年フランスのペリオ、11年日本の大谷探検隊、14年にロシアのオルデンブルグが敦煌を訪れ、王円籙から買い取って各国に将来した。この文書や絵画の発見と紹介が、敦煌学の隆盛をもたらした。1944年の敦煌芸術研究所設立前後から、中国は敦煌莫高窟の保護に努め、51年に設立した敦煌文物研究所が、現在は敦煌研究院と改称して、保護や研究を進めている。
(中野照男)
以上、転載
