江華島〔遺跡〕 こうかとう
江華島〔遺跡〕
こうかとう
Ganghwado
韓国・仁川直轄市江華郡に属する。朝鮮半島中西部西海岸地域に、本土の金浦郡との距離約200〜300mを挟んで位置する。東西約15㎞、南北約27㎞、面積293㎢を測る。江華島の歴史は、櫛目文土器(新石器)時代に始まるが、顕著な遺跡は無文土器(青銅器)時代の支石墓において認められる。支石墓は、これまでにおよそ20ヵ所100基近くが確認されている。そのうち半数近くがテーブル型(北方式)である。原三国(三韓)時代から三国時代(高句麗・穴口郡)を経て、統一新羅時代(海口郡)にわたるころの遺跡・遺物はほとんどわかっていない。
江華島が朝鮮史上、大きな脚光を浴びるのは高麗時代以後のことである。すなわち、高麗王室が蒙古の侵入によって江華島に遷都し、江都と呼ばれるようになってからである。高麗は、高宗19年(1232)から元宗11年(1270)まで、ここを都邑とした。そのころの城郭は、島の東部に内・中・外3城が築かれたが、その城壁が部分的に随所に残る。内城は当初は土塁であったが、李朝(朝鮮)時代初期に石塁に改築された。内城内にあった王宮跡に対して発掘調査が行われたが、瓦は出土したものの遺構はすでに消滅していた。中城と外城は土塁をなすが、それぞれの長さが約6㎞と11㎞を測る。外城の南方に位置する三郎山城は、周囲2.3㎞にわたって土塁がめぐる。城内には高宗46年(1259)に離宮が建てられたと伝えるが、遺構は明らかでない。また、城内には伝燈寺があり、高句麗時代の草創と伝える。寺院跡には、高宗32年(1245)に創建され、八万大蔵経の版木を彫刻、奉安したところとして知られる禅源寺跡や、島で唯一の高麗時代の五重石塔が残る奉恩寺跡がある。陵墓では、毅宗の碩陵と高宗の弘陵のほか、高麗時代の名臣であった許有全の墳墓などが知られる。12世紀の中ごろの陶磁器窯跡もあるが、未調査である。李朝(朝鮮)時代に入ると、高麗時代の内城を石塁に改築して邑城としたが、その遺構が随所に残る。そして国防遺跡として、鎮5・堡7・炮台8・墩台53・烽燧8があり、そのうちいくつかが復元、整備されている。
(西谷正)
以上、転載
*辞典解説文から漢字ピックアップ
烽燧=とぶひ
烽、燧はともに のろし の意
