金冠塚 きんかんづか

金冠塚
きんかんづか
Geumgwan-chong

韓国・慶州市路西洞に所在する三国時代新羅の古墳。20世紀初め、半月状の墳丘が残存していた。1920年(大正9)家屋建設のための土取り作業中に礫石・遺物が発見され、当時の朝鮮総督府博物館嘱託諸鹿央雄らによって応急の調査が行われた。その後、濱田耕作・梅原末治らによって異物の整理がなされ、報告書が刊行された。積石木槨墓で、木槨は長さ5m前後、木棺2.5m、幅約1mに復元された。木槨内の木棺の両側に鉄鋌と鋳造斧形品が長さ3m、厚さ15㎝にわたって敷き並べられていた。木棺の四隅に当たるところに蛇行状鉄器(寄生)が配置されている。木棺内では金冠・金製耳飾・金製銙帯・腰佩・金銅金具飾履が盛装状態で確認されたという。そのほか装身具として、金銅製前立飾・銀製冠帽・木皮製冠帽が見つかっている。ガラス器・金属容器類の出土量も多い。環頭大刀類・金銅製甲冑・玉虫羽飾のほか、鞍金具などの金銅装馬具類もまとまって出土した。報告書では土器・鉄釜・金属製容器・漆器・ガラス器・耳飾・頸飾・釧・銙帯・腰佩・飾履についての解説と考察がなされている。

この金冠塚の発掘は、1916年(大正5)の楽浪古墳群以来の「東亜における従来の最大考古学的発見の一と称してもあながち過言であるまい」といわれ、新羅文化への認識が高まった。「古墳の遺物中最も顕著なるものゝ一によって、之を金冠塚(或は金冠陵)」と呼ばれた。地元からの保存要望と寄付金によって、慶州に博物館分館が建設され、1933年(昭和8)に開館した。現在も博物館の建物は旧・慶州邑城内に残る。金冠塚の墳丘は、径約45mに復元された。東に隣接する鳳凰台古墳は径約82mである。これらの金冠塚と鳳凰台古墳の間に、統一新羅時代の南北道が通る。その北方の隍城洞では、それにつながる石敷き道路も発掘されている。金冠塚は大路に接して存在しており、その後の破壊の要因になった。

(東潮)

以上、転載

 

*辞典解説文より漢字ピックアップ



ハイ、おびだま、お(びる)、は(く)