金海〔遺跡〕 きんかい
金海〔遺跡〕
きんかい
Gimhae
韓国・慶尚南道金海市・金海郡。朝鮮半島東南部の洛東江右岸河口域に当たる。先史時代以来の遺跡の密集地。この地域が文献史料に登場するのは、原三国(弁韓)時代に入ってからのことである。『魏志』の韓伝に弁辰狗邪国、同じく倭人伝に狗邪韓国とそれぞれ記載される。この時代の遺跡としては、金海貝塚・鳳凰台遺跡や良洞里墳墓群をはじめ、府院洞・大成洞・亀旨路・池内洞・農所里などの遺跡群が発掘調査されている。そのうち良洞里墳墓群は、狗邪国の王墓を含むと考えられるが、広形銅矛など北部九州の弥生時代後期の製品なども含まれ、両地域間の密接な交流がうかがえる。三国時代に入ると、加耶諸国の中の金官国の所在地となる。『三国遺事』に収録されている『駕洛国記』によると、5伽耶の一つとして金官の名が見え、後漢の建武18年(42)に成立したと伝える。『三国史記』には、新羅の法興王19年(532)に新羅に投降したことで、金官郡になったという。そのころの遺跡群には、盆山山城と大成洞・七山洞・礼安里・亀山洞・亀旨路古墳群などがある。そのうち、大成洞古墳群の木槨墓・竪穴式石室墳には、金官国の王墓を含むと考えられるが、副葬品の中には巴形銅器・筒形銅器や鏃形・紡錘車形石製品など、倭と共通するものが認められる。そして、亀山洞古墳群の横穴式石室墳には、金官郡設置に伴う新羅による併合以後のものが含まれよう。同じように、亀山洞遺跡の土器窯跡群も、そのころに比定される。
『三国史記』によると、統一新羅時代の8世紀中ごろの景徳王代に金海京、高麗時代に金州と呼ばれたと見える。また『李朝史略』には、天福5年(1006)に金海府になったと記すが、李朝(朝鮮)時代に入って再び金海郡と呼ばれるようになった。統一新羅・高麗時代の遺跡では、顕著なものが調査されていない。李朝時代では、金海邑城の城壁の一部や、北壁の北方で前期の礎石建物跡が発掘調査されている。盆山山城は、もともと金官国時代に初築されたと考えられるが、李朝時代に石築の城門・城壁が大きく改修されている。また徳山里では、民墓群が発掘調査された。
(西谷正)
以上、転載
*マップは慶尚南道金海市の範囲
