金海会峴洞遺跡 きんかいかいけんどういせき

金海会峴洞遺跡
きんかいかいけんどういせき
Gimhae Hoehyeon-dong-yujeok

韓国・慶尚南道金海市鳳凰洞の標高46.5mの鳳凰台と呼ばれる丘陵にある、無文土器(青銅器)時代から三国時代加耶・新羅にわたる遺跡。そのうち東南部に位置し、金海貝塚の名で知られてきた地点が、朝鮮総督府の関係者によって、1920年(大正9)と、34・35年(昭和9・10)に本格的に発掘調査された。その結果、各種の遺構や遺物が検出された。すなわち、無文土器時代には支石墓1、箱式石棺墓5、甕棺墓3からなる墓地が営まれた。甕棺墓の内外からは、碧玉製管玉・細形銅剣・銅鉇が出土し、また石棺墓内からは、丹塗磨研土器と磨製石鏃が出土した。ついで、原三国(弁韓)時代では住居が営まれ、貝塚が形成された。住居跡は炉跡を伴う敷石の竪穴式である。貝層は東西約120m、南北約30mの範囲で、特に丘陵南面の厚いところは厚さ約9mに堆積する。貝層出土の土器は、赤褐色をした無文土器系の土器に加えて、黝青色の灰陶質土器が加わる。骨角器・鉄器・炭化米・貨泉など特色ある遺物も見つかった。三国時代では、金官加耶と新羅の土器を出土したが、遺構は不明である。

第2次大戦後は、釜山大学校博物館により、1992年に鳳凰台全体に対して大がかりな発掘調査が行われた。その結果、鳳凰台西側斜面の標高17m付近で、3世紀末ないし4世紀初めごろに彫り込まれたと思われる金官加耶時代の環濠の一部が検出されたことから、ここに環濠集落が営まれていたことが推測された。鳳凰台の頂上部から斜面にかけては、数ヵ所に貝層が堆積している。そのすぐ上位で竪穴住居跡群が検出された所があることから、鳳凰台が金官加耶国成立時の中心をなす拠点集落であった可能性がある。さらに鳳凰台の西麓では、船着場と掘立柱建物などが検出された。

(西谷正)

以上、転載

 

 

*辞典解説文より漢字ピックアップ


ユウ、あおぐろ(い)、くろ、くろ(い)