壁画古墳〔朝鮮〕 へきがこふん〔ちょうせん〕
壁画古墳〔朝鮮〕
へきがこふん〔ちょうせん〕
三国時代の高句麗を主として、百済・新羅・加耶(加羅)や、高麗時代に若干、横穴式石室などの壁面に各種の壁画が描かれた墳墓が知られる。高句麗では、王都のあった中国吉林省の集安市や、北朝鮮のピョンヤン付近に多く見られ、これまでに80余基が報告されている。最古の例は黄海南道の安岳3号墳で、永和13年(357)の紀年と冬壽という被葬者の墨書を含み、その起源が中国の遼東地方にあることをうかがわせる。4世紀後半から5世紀の壁画古墳は、墓室の側面に塗った漆喰の上に、主として被葬者の肖像画や、公的・私的の生活場面などを描くが、6〜7世紀に下ると、石室の壁面に直接描いた四神図(青龍・朱雀・白虎・玄武)などの題材が中心となる。百済では、中期の王都であった忠清南道公州市の宋山里6号墳において、6世紀前半ごろの塼築墳の壁面に部分的に粘土を塗り、四神図や日月図を描いている。後期の王都のあった忠清南道扶余邑の陵山里古墳群の東下塚では、6世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた横穴式石室の、よく研磨された側壁に四神図と、天井に蓮華文・飛雲文などを、それぞれ直接に描いている。これら装飾古墳の手法は日本列島に伝わり、飛鳥の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に影響を与えた。
新羅では、王都から北方に遠く離れた慶尚北道栄豊郡順興面に、2㎞ほどの距離をおいて2基の壁画古墳が知られる。そのうち邑内里のものは、漆喰の上に裸身の力士像、ヘビや蓮華のような動植物などを描き、419年に当たる可能性もある。「己未」の紀年墨書が見られる。もう一つの古墳でも、やはり漆喰の上に壁画を描くが、羨道の天井石に蓮華文と、玄室入口の石扉の外面に神将のような人物像が見られ、さらに石扉の内面には「乙卯年於宿述干」の陰刻銘があり、6世紀ごろの年代が与えられている。加耶では、大加耶の故地に当たる慶尚北道高霊邑の古衙洞において、6世紀ごろの横穴式石室の玄室と羨道の天井で、薄く塗った漆喰の上に描かれた蓮華文が遺存している。ついで高麗時代では、王都のあった開城付近と、そこから遠く離れた慶尚道で壁画が描かれた墳墓がいくつか知られる。いずれも漆喰などの上に描かれている。開城の王建陵では四神図と松竹梅図が、また、恭慇王陵(1374)では玄室の東・西・北の3壁に十二支神像と天井部に星座と日像とが、それぞれ描かれている。また、水落岩洞や法堂坊のおそらく貴族墓でも十二支神像や四神図が認められる。慶尚北道の安東西三洞や慶尚南道の居昌屯馬里では、石棺形の石室の壁面に、それぞれ四神・星座と人物像などを見ることができる。
(西谷正)
以上、転載
安岳3号墳は こちら
宋山里6号墳は こちら
陵山里古墳群は こちら
高松塚古墳は こちら
キトラ古墳は こちら
古衙洞古墳は こちら
王建陵は こちら
恭慇王陵は こちら
安東西三洞は こちら
居昌屯馬里はこちら
