肥前陶磁 ひぜんとうじ

肥前陶磁
ひぜんとうじ

肥前(佐賀・長崎県)の陶磁生産は、朝鮮から2度にわたって技術者を連れてきたことによって始まる。最初は天正年間(1573〜92)のころ、松浦党の大名波多氏が連れてきて、居城の岸岳城下で始まる。波多氏が秀吉によって改易となり、窯は伊万里・武雄など南へと拡散し盛んになる。次に秀吉の朝鮮侵略で多くの朝鮮人陶工が連れてこられ、陶器も技術変化するとともに、新たに朝鮮の磁器技術によって磁器焼成が始まる。佐賀県有田で原料の陶石が発見され、陶器窯の中での試行錯誤の結果、成功した。1637年に鍋島藩は陶器の陶工を排除し、磁器だけの生産体制を作り上げる。伊万里焼と呼ばれた磁器生産は1664年、中国が王朝交替に伴う内乱で磁器輸出ができなくなると、代わって海外輸出を始める。以後、1750年代にかけての約100年、アジアからヨーロッパにかけての広域に輸出した。1684年、中国が展海令によって本格的に磁器輸出を再開すると段階的に市場を奪われ、18世紀前半にはヨーロッパ市場で有田の磁器が中国磁器と競争し、1757年をもって公式輸出は終わる。18世紀後半には、国内の庶民向けの安い磁器を長崎県波佐見窯中心に量産する。庶民までが磁器の食器を使うようになると、各地で磁器生産を興そうとする動きが活発となり、江戸時代後期の中で、各地に磁器の技術が伝播した。

(大橋康二)

以上、転載