カラコルム遺跡 からこるむいせき

カラコルム遺跡
からこるむいせき
Kharakhorum site

モンゴル・ウブルハンガイ県ハルホリン郡に所在し、オルホン川東岸の微高地に立地する都市遺跡。南北1450m、東西1138m、現存高1mほどの土壁に囲まれた部分を中心として、約4㎞四方の範囲に13〜14世紀の遺構・遺物が見られる。19世紀末にロシア人のN.M.ヤドリンツェフが踏査、V.V.ラドロフより遺跡の概要が世界に公開された。1948・49年のS.V.キセリョフを代表とするソ連・モンゴル共同発掘調査では都市中心部の構造が判明した。1995・96年の加藤晋平を代表とする日本・モンゴル共同調査では詳細な遺跡全体図が作られ、正確な規模が明らかになった。

1235年に、モンゴル帝国第2代皇帝ウゲデイ(オゴダイ)が建都した。ウイグル可汗国時代や契丹(遼)時代の集落を基礎にして、その周囲に宋尺を用い、一辺が2里(1137m)となる正方形の城壁を造ったと想定できる。その西南隅に宮殿「万安宮」と考えられている大型建築が建てられた。一辺260mのほぼ正方形の範囲を二重のレンガ壁で囲い、中心に41m四方の基壇を設け、その上に屋根瓦とレンガを用いた中国風木造建築が築かれた。1999年から行われたドイツ隊の調査では、この建物は宮殿ではなく寺院「興元閣」だと言う異論も提出された。建都当初は城内南を中心に高位高官の邸宅が建てられ、その後、城壁内全体の市街地整備が行われた。1254年にこの地を訪れたフランス人ルブルクの旅行記には、中国人の工人区、ムスリムの商業区、12の仏教寺院、2ヵ所のイスラム教寺院、キリスト教会も1ヵ所あったと記されている。モンゴル帝国の首都として、当時を代表する国際都市であった。1260年に首都の座を失うが、軍事拠点として存続する。1299年に城壁外に市街地を拡張した。1380年代には明軍の攻撃をしばしば受け、炎上崩壊した。その後しばらく無住期があったが、1585年に南に隣接してチベット仏教のエルデネ・ゾー寺院が建立されると、その門前町として一部復興した。

(白石典之)

以上、転載