綱首 こうしゅ

綱首
こうしゅ

「ごうしゅ」ともいう。中国の唐代以降、多くの漕船は船団を組んで航行し、船団は綱あるいは綱船と呼ばれた。ふつう十船をもって一綱をつくっていた。綱首はその船団の長を意味し、綱司・都綱や船頭とも称されていた。綱首以外に副綱・雑事・舟師・梢工(舵取り)などの船員組織があった。中国で明州(寧波)綱首、高麗で高麗綱首、日本で博多綱首など、都市名や国名を冠して呼ばれる場合があり、これら中国人綱首はそれぞれの港市を拠点に、中国本土との間や東アジア海域で独占的な交易活動を行なっていた。博多遺跡群では、「綱」銘墨書の中国陶磁器が大量に出土し、平安時代後期に形成された博多津唐房(チャイナタウン)に拠った博多綱首の活動が知られる。その代表的人物であった謝国明は、13世紀前半に活躍したが、博多綱首の活動は蒙古襲来の前まで確認される。

(林文理)

以上、転載