クチャ(庫車) くちゃ

クチャ(庫車)
くちゃ
Kucha

中国・新疆ウイグル自治区クチャ県にある遺跡群。天山山脈の南麓、西域北道のほぼ中間に位置する。中国の史書に見える亀茲・屈支に当たる。前2世紀に漢代の記録に現れて以来、白を名乗る王家が続いた。言語はインド・ヨーロッパ語系のトハラ語Bを使用していた。鉄などの天山山中の豊富な鉱物資源を背景に、西域北道の要衝として繁栄し、文化的にも西域屈指の中心となり、小乗仏教が発達して、華やかな仏教文化を築いた。一方、4世紀後半に大乗仏教の経典を漢訳した鳩摩羅什がここに生まれており、ここでは様々な仏教文化が受容されていたと想像される。近郊の仏教遺跡にはキジル、クムトラ、シムシム、クズルガハ、マザバハ、タイタイルなどの石窟寺院、スバシ、ドゥルドゥル・アクールなどの地上に建てられた伽藍跡がある。

シムシム石窟は、クチャの北東約38㎞の所にある。シムシム渓谷の両岸に高くそびえる崖に52の石窟が穿たれている。1906年にドイツのグリュンヴェーデル、13年に同じくドイツのル・コック、28年に中国の黄文弼が調査した。61年には新疆石窟調査組の調査が行われた。造営の年代は5世紀から9世紀に及び、その石窟の形式や壁画の様式はキジルのそれに近い。ただ若干の石窟に中国風の様式があり、この地域ではクムトラ石窟以外に、唯一中国風の様式を見ることができる石窟である。

クズルガハ石窟は、クチャの西北約14㎞にあるクズルガハの烽燧跡の近くにある。鹽水溝の両岸に現在46の石窟が残るが、保存状況はあまりよくない。11の石窟に壁画がある。僧房窟が比較的多い。

マザバハ石窟はクチャ県域の東北約30㎞にある。谷の両側に計34の石窟があるが、壁画はそのうち3石窟に残るにすぎない。

タイタイル石窟は、キジル石窟と同様に拝城県に属し、拝城県城から西約60㎞、キジル石窟からは北西に約13㎞離れた位置にある。現存する石窟は18窟、壁画の残る石窟は6窟である。1928年に黄文弼、53年に西北文化局新疆文物調査隊が調査した。70年代末以降は、キジル千仏洞文物保管所が調査と保管に当たっている。79年に北京大学歴史系石窟考古実習班の宿白、81年に同じく北京大学の許宛音が調査した。石窟形式や壁画の画題・様式はキジル石窟のそれに近い。

スバシ遺跡は、クチャの東北方約23㎞にある。玄奘の『大唐西域記』に「昭怙釐」と記される遺跡である。1903年に日本の大谷探検隊、07年にフランスのペリオ、28年に黄文弼が調査した。クチャ河が山を抜け出た所に造られた仏教伽藍跡である。河の東西両岸に遺跡があり、東岸の遺跡は、南北の長さ535m、東西の広さ146m、西岸の遺跡は南北の長さ700m、東西の広さ180mである。漢や唐の貨幣、亀茲文や漢文の文書、様々な仏教工芸品が出土した。中でも、木製の舎利容器は珍しい形のもので、大谷探検隊が2個、ペリオが4個発見している。大谷探検隊が将来し、現在東京国立博物館が保管する舎利容器は、円錐形の蓋と円筒形の身に奏楽し舞踏する人物たちを描くもので、亀茲楽で有名なクチャの音楽風景を彷彿させるとともに、工芸技術の洗練さをも伝えてくれる。7世紀ころの制作と考えられる。

ドゥルドゥル・アクール遺跡は、クチャの南西に位置し、ムザルト河の下流にあるクムトラ石窟の谷口区に隣接する伽藍跡である。河の両岸に広がる。玄奘の『大唐西域記』に記す「阿奢理弍伽藍」に比定されている。1903年に大谷探検隊、07年にペリオ、28年に黄文弼が調査し、6〜8世紀ころの壁画断片や、亀茲文の文書・塑像・木彫像・木製の建築部材などが出土した。現在東岸の遺跡は残るが、西岸にはストゥーパが残るのみである。

亀茲故城の発掘は、1957年から58年にかけて、中国科学院考古研究所新疆考古隊が行い、中・下層から石器や骨器、彩陶片などが出土し、上層から唐代の建築遺構や陶磁器などが発掘された。

(中野照男)

以上、転載

 

 

*辞典解説文より漢字ピックアップ


エン、アン、しお