クムトラ(庫木吐喇)石窟 くむとらせっくつ

クムトラ(庫木吐喇)石窟
くむとらせっくつ
Kumtura-shiku

中国・新疆ウィグル自治区クチャの西南25㎞にある石窟寺院群。渭干河(ムザルト河)の東岸の崖、すなわち丁谷山(チョール・タグ)と呼ばれる山脈の崖に開鑿されている。下流の四つの谷から成る谷口区には32窟がある。窟群区は3区から成る。大きな谷の入口の南に展開する石窟群を谷南区、入口の北にある石窟群を谷北区、谷の中に散在する石窟群を谷内区と呼び、合わせて80窟がある。紀元5世紀ころに開鑿が始まり、10世紀ころまで造営が続いた。現在は62窟に壁画が残っている。1903年に第1次大谷探検隊の渡辺哲信・堀賢雄が調査した。大谷探検隊は第2次の野村栄三郎、第3次の吉川小一郎もここを訪れた。ドイツ隊はここを3回調査した。グリュンヴェーテルが1903年と06年に調査し、3度目は13年にル・コックが訪れた。その他、フランスのペリオ、ロシアのベレゾフスキー、イギリスのスタイン、中国の黄文弼などが訪れた。

クムトラ石窟は、近くのキジル石窟と同時期に造営されたと考えられる。谷口区第20窟・同21窟など、方形の主室に穹窿天井(クッペル)を頂く形式の石窟は、壁画も古様を留めており、キジル石窟の第67窟(紅穹窿窟A)や第76窟(孔雀窟)と同様に、この地域では古いものである。蒲鉾天井を頂く第23窟などは、石窟の形式や壁画の主題が、盛期のキジル石窟のそれと一致する。キジル石窟では7世紀ころに石窟造営が終わったが、クムトラ石窟では、その後もこの地に進出してきた漢民族によって、造営が継続された。阿弥陀浄土変相図や薬師経変相図を持つ第16窟(キンナリ窟)などがその代表である。クムトラ石窟では、おおむね8〜9世紀の年号を伴った銘記が多く見いだされるが、これも漢民族の様式の壁画が8世紀から9世紀にかけて描かれたことを証している。クムトラ石窟でも塑像が用いられた。第70窟と第71窟に塑像の芯として使用された石胎が残っている。

(中野照男)

以上、転載