王莽鏡 おうもうきょう
王莽鏡
おうもうきょう
1917年(大正6)に富岡謙蔵は、始建国2年(AD10)の年号を持つ円圏規矩獣帯鏡の銘文にある「作辟雍治校官」という句に着目し、これが『前漢書』に見える新の王莽の事跡と一致することを指摘し、合わせて「新興辟雍建明堂 然于挙士列侯王」「王氏作鏡四夷服 多賀新家人民息」「新有善銅出丹陽」のように銘文中に王莽の事跡や「新」「王」を持つ方格規矩四神鏡は新の王莽時代の製作であることを論証した。鏡鑑研究史に残る高論で有、その後この名称がある。王莽鏡は方格規矩四神鏡に多いが、文様上類似した特徴を持つ細線式獣帯鏡にもある。1918年に「王氏作鏡」や「新作明鏡」の銘を持った三角縁神獣鏡や画象鏡なども王莽鏡であるとする説が高橋健自から出されたが、梅原末治が銘文だけでなく、鏡の様式も考慮すべきであると反駁して論争となった。この「王莽鏡論争」は1925年(大正14)に楽浪郡発見の古鏡が発表されるに及んで終焉したが、対象時代の鏡鑑研究を大いに推進した。
(藤丸詔八郎)
以上、転載
