平壌〔遺跡〕 へいじょう(ぴょんやん)

平壌〔遺跡〕
へいじょう(ぴょんやん)
Pyeongyang

ピョンヤン一帯の歴史は、旧石器時代にさかのぼるが、前期では祥原郡コムンモル遺跡が著名である。前期には江南郡龍谷里で原人、中期には力浦区域大峴洞で旧人の、そして後期では勝湖区域晩達里で新人の化石人類が、それぞれ出土して注目される。櫛目文土器(新石器)時代に入ると、大同江下流域の河岸では、三石区域湖南里南京、寺洞区域美林洞・金灘里、大城区域清湖洞などにおいて、遺跡が点々と分布する。それらの遺跡群は、旧石器時代以来の狩猟・漁労・植物採取などを主体とした採集経済を基盤とする文化に属する。無文土器(青銅器)時代に入って、畑作中心の生産経済へと移行し、農業集落が増大してゆく。この時代の墳墓としては、支石墓や箱式石棺墓がいちじるしい。そのうち支石墓はピョンヤン市内だけでも、西城区域臥山洞など30数ヵ所で知られる。そのような地域的発展と、文献史料にBC2世紀前半ごろにおける衛氏朝鮮の成立との諸関係は必ずしもよくわかっていない。ついで、漢の武帝はBC108年に衛氏朝鮮を倒して、現在の楽浪区域を中心とした地域に楽浪郡を設置した。

その後、高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼし、平壌城を増築したが、その平壌城は大城区域清岩洞に残る土城と考えられる。さらに、427年に中国吉林省集安にあった国内城から平壌城へ遷都した。それ以後、高句麗後期の首都となった平壌は政治的・経済的・軍事的拠点として繁栄した。そのころの都城は、大城区域安鶴洞に残る安鶴宮跡を日常平時の王宮とし、その背後の丘陵に大城山城を築いて、いったん危急時の王都の守りとした。王宮は一辺約620mの方形の城壁で囲まれ、また山城は六つの峰を取り囲んで周囲7㎞ほどの城壁が五角形に近い楕円形にめぐる。そして586年には、そこから南西6〜7㎞の所に、30年ほどの歳月を費やして長安城を築き、本格的な都城を完成させた。長安城は山城型式をとった北城、中枢的な内城・中城、さらに整然とした方格地割を持った外城からなり、全体を総延長23㎞の城壁で取り囲むという壮大なものであった。当時の王・貴族階級の古墳は、ピョンヤン市街の北東方の丘陵地帯に濃密に分布する。そのほとんどが横穴式石室を内部主体とし、なかには壁画で飾るものもある。またこの時期に、ピョンヤンには金剛寺(清岩洞廃寺)や定陵寺をはじめとする寺院が営まれ、その遺跡が知られる。

(西谷正)

以上、転載