三別抄〔遺跡〕 さんべつしょう
三別抄〔遺跡〕
さんべつしょう
Sambyeolcho
高麗時代に蒙古の勢力下に入った王室に対して、反蒙古勢力として抵抗した反乱軍。高麗は、蒙古軍の侵入に対して長期抗戦を行うために、高宗19年(1232)に都邑を開城から江華島に遷し、江都と呼ばれた。その後、9年間にわたって置かれていた王室は、蒙古との講和を機に元宗11年(1270)に開城に遷都した。ところが、江華島守備の主力部隊であった三別抄は、蒙古勢力に対して反乱を起こした。このとき、三別抄の指揮官であった裵仲孫は、王族の承化侯温を王として推戴した。そして、官府を設置して官吏を任命する一方、沿岸警備を厳重にした。しかし、江華島内の人心が動揺し、文・武官の中に脱出する者が多くなると、裵仲孫は珍島へと移動を余儀なくされた。そこで、珍島を根拠地として沿岸の州郡を掠奪した。こうして、一時は済州島・巨済島をはじめとした30余の島嶼を支配し、さながら海上王国をなした。三別抄の珍島における拠点が龍蔵城であった。
龍蔵城跡は、発掘調査後に史跡公園として整備されている。その後、裵仲孫将軍の率いる勢力が、金方慶の官軍と蒙古軍の連合軍によって敗れると、一部は逃亡し、また一部の金通精が率いる三別抄は、耽羅すなわち済州島に移った。そこで内外の2城を築いて最後の抵抗を行ったが、元宗14年(1273)にはついに敗れて、三別抄の反乱は終わった。済州島における三別抄の最後の拠点として築かれたのが、缸波頭城であった。缸波頭城跡は、一部で発掘調査が行われた後、土城の一部が復元整備されている。済州島における三別抄のもう一つの遺跡に長城がある。『東国輿地勝覧』済州牧の古跡の条には、古長城として「沿海環築、周三百余里、高麗元宗時、三別抄叛拠珍島、王遣侍郎高汝林等于耽羅、領兵一千以備之、因築長城」と見える。その長城の遺跡は、北済州郡旧左面下道里・南済州郡城山面湯坪里・同新山里などの海岸部に残る石塁であろう。北済州郡朝天面北村里の環海長城と呼ばれる石塁も、その一部と考えられる。ここの石塁はもっともよく残り、長さが500m、幅1〜2m、高さ2〜3mの規模を示す。ちなみに、三別抄の勢力が1273年に鎮圧された翌年、文永の役となって日本が蒙古の襲来を受けることになる。
(西谷正)
以上、転載
