聖住寺跡 せいじゅうじあと
聖住寺跡
せいじゅうじあと
Seongjusa-ji
韓国・忠清南道保寧市聖住面聖住里にある統一新羅時代末期に成立した九山禅門の一つ。847年に朗慧和尚無染によって創建された。1968・74年の2度にわたり、東国大学校博物館が発掘調査を行い、その後、忠南大学校博物館が91〜96年に6次にわたる発掘調査を行った。聖住寺朗慧和尚白月葆光塔碑・五重石塔・中央三重石塔・西三重石塔・東三十石塔・石燈・石階段・石製仏像台座が現存し、聖住寺碑片が採集されている。聖住寺朗慧和尚白月葆光塔碑は、統一新羅時代に崔致遠が作った四つの碑文の一つで、5000字を超える文章から当時の状況を詳しく伝えている。聖住寺碑は金立之が作った碑文で、850〜853年の間に立てられたが、現在12個体の破片が採集されている。部分的な解読しかできないが、復元すると約2100文字が刻まれていたと推測される。
この碑文は、聖住寺と金仁問との関係を明らかにする上で重要な資料である。『崇巌山聖住寺事蹟』では、聖住禅院は本来隋煬帝の大業十二年乙亥に、百済国二十八世恵王の王子である法王が烏合寺を創建した地であり、戦争で勝利して寃魂が仏界に昇天することを願って建てた願刹であると記す。すなわち、国家仏教的性格を持つ護国寺刹である。しかし「乙亥」は「大業十一年」(615)であり、「大業十二年」(616)の干支は「丙子」である。また「大業十二年」の百済王は法王(599〜600)ではなく武王(600〜641)である。これらの問題点が残るものの、聖住寺創建期以前の遺構から百済時代の瓦が多量に出土することから、聖住寺の前身が烏合寺である可能性は高い。烏合寺は『三国史記』では烏含寺、『三国遺事』では烏会寺・烏合寺と記すが、いずれも百済滅亡を暗示する記事の中で登場する。同様の内容が『日本書紀』にも記され、古くから注目されてきた。伽藍は大きく烏合寺創建期(7世紀前半)、烏合寺重建期(7世紀末)、聖住寺創建期、三千仏殿創建期(11世紀末〜12世紀)、三千仏殿重建期(15世紀〜16世紀中ごろ)の五つの時期に分けられる。烏合寺創建期には中門・木塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ一塔一金堂式(四天王寺式)伽藍配置であり、講堂跡の左右では正方形の建物跡が検出された。そして、万暦39年(1611)銘文字瓦を最後に、年号が刻まれた瓦が出土しないことから、17世紀前半には廃寺になったと推測される。
(李タウン)
以上、転載
