ソウル〔遺跡〕 そうる

ソウル〔遺跡〕
そうる
Seoul

韓国・ソウル特別市。李氏朝鮮(朝鮮王朝)の太祖李成桂が、1394年に当時、漢陽と呼ばれた現在のソウルの地にその王都を定め、都城を築き、王宮を営んで以来、首都としての都市的発展を遂げてきた。李朝(朝鮮)時代の王城は、北岳山の南麓に宮城を持ち、周囲を石築の城壁で囲み、南大門・東大門をはじめ大小8門を開いていた。宮城には現在、景福宮・昌徳宮・昌慶宮・徳寿宮などの王宮があるが、いずれも文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)後の再建によるものである。景福宮は李朝の正宮であって、その宮城は正殿である勤政殿を中心に、東半部を住居地区、西半部を政務・公式地区として、大きく東・西に2分されている。ソウルに隣接する京畿道九里市仁倉洞には、太祖の建元陵をはじめとする東九陵がある。また、ソウル特別市城北区弥阿洞で発見された温寧君の墳墓では、石槨の中に木棺が納められ、白磁を副葬していた。

ソウルの歴史は古くさかのぼる。中浪区面牧洞では旧石器の採集も報じられる。ソウル市内を流れる漢江の河岸では、江東区岩寺洞に櫛目文土器(新石器)時代の集落遺跡があり、竪穴住居跡群と多様な土器・石器などが検出された。無文土器(青銅器)時代に入ると、松坡区の可楽洞、江南区の駅三洞、江東区の明逸洞、城東区の鷹峰洞などの丘陵地で集落遺跡が、また、中浪区の忘憂洞や江東区の高徳洞などでは支石墓がそれぞれ知られる。続く原三国(三韓)時代では、漢江左岸に立地する江東区の風納土城があり、そこを帯方郡の郡治跡に比定する見方もあったが、現在では否定的である。この付近には三国時代百済初期の遺跡が多い。風納土城は百済初期の都城として、土築の城壁が部分的に残る。漢江をはさんで対岸の俄嵯山には、三国時代高句麗の堡塁遺跡がある。風納土城から南方に4㎞ほど離れた蠶室地区一帯には、都城跡や古墳群が濃密に分布する。夢村土城は、風納土城に続く百済前期の都城跡と考えられる。可楽洞の古墳群は、土壙墓・甕棺墓を埋葬主体とする小型で方形の封土墳であるのに対して、松坡区の石村洞古墳群は、方形段築の積石塚であり、大型のものもあるが、埋葬主体は土壙墓のようである。同じく松坡区の芳荑洞の古墳群は、割石を小口積みにした横穴式石室を内部構造に持つ中・小型の円墳群である。一方、城東区中谷洞の横穴式石室は、6世紀まで年代が下ると考えられるが、6世紀中ごろに立てられた北漢山の新羅の真興王拓境碑と合わせ考えると、新羅の影響の可能性が高い。統一新羅時代では、銅雀区の舎堂洞で新羅土器の窯跡が調査されている。高麗時代に、ソウルは南京となったが、この時期の遺跡はほとんどわかっていない。李朝時代に関しては、王宮・羅城・城門のほか、南漢山城や幸州山城などの遺跡がよく知られる。

(西谷正)

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