帯方郡治跡 たいほうぐんちあと

帯方郡治跡
たいほうぐんちあと
Daebanggunchi-ji  Taifanchunchih-zhi

北朝鮮・黄海北道鳳山郡智塔里に所在し、瑞興川右岸の沖積地に立地する智塔里土城が有力候補地である。戦前は、古唐城もしくは唐土城とも呼ばれた。平面台形をした土塁は、総延長が2㎞を超える。土城内からは、帯方郡設置以前は県治跡であったことを示す後漢の光和5年(182)から、帯方郡時代の西晋の泰始7年(271)にかけて、数世紀間にわたる紀年銘塼をはじめとする、瓦・塼・土器・銭貨などが出土している。帯方郡は、楽浪郡の南部を分割して置かれたので、その郡治跡は、楽浪郡治跡の南方に隣接する地域と考えるのが自然であり、楽浪郡治跡の南方70㎞ほどの所に位置する智塔里土城こそ、帯方郡治跡というべきであろう。

戦後になって、科学院考古学及民俗学研究所が1957年に発掘調査したところ、智塔里土城の下層に櫛目文土器(新石器)時代の文化層が見つかり、智塔里遺跡として知られる。その際、上層の原三国(古朝鮮)時代の文化層からは、漢式の瓦・塼や青銅・鉄製品などの遺物のほか、礎石を伴う建物跡の一部も検出された。さらに、上記の研究所が1990年代に入って土塁の断面発掘を行ったところ、新たに下層の土塁が見つかり、その規模は高さ約3m、幅約6.5mを測った。出土遺物から見て下層の土塁が無文土器(青銅器)時代のものとされるのに対して、上層の土塁は原三国(古朝鮮)時代後期といわれる。そのうち、上層の土塁は版築技法によっていることや、青銅製三角鏃や灰色瓦片が出土しているので、おそらく帯方郡治跡の城壁であろう。最近、智塔里土城の西方に隣接する黄海南道載寧郡の青山里土城に対して、その規模が楽浪郡治跡に匹敵することと、周辺で帯方郡に関連する遺跡・遺物が発見されることなどを理由に、楽浪郡治跡の可能性が高いとされる見解も出ている。その場合、智塔里土城は郡下の県治跡とされる。

(西谷正)

以上、転載